中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

上代天皇を次々「処刑」の“歴史テロル”を放置する日本人 ──神武天皇ばかりか、なぜ成務・仲哀天皇/神功皇后まで抹殺されたか

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 天皇制廃止を目標として「人民の歴史」を捏造してデッチアゲる歴史改竄は、戦後日本における共産革命の至上命令であった。日本共産党天皇制廃止革命運動は、スターリンの命令によって、1932年に本格化する。このスターリンの命令を通常「コミンテルン32年テーゼ」と言う。コミンテルンとは、英語名の「コミュニスト インターナショナル COMMUNIST INTERNATIONAL」の短縮語。また、レーニンが1919年3月に創設したコミンテルンとは、実態的にはソ連共産党国際部のことで、その擬装名称。国連のような国際組織ではない。

 戦前日本の共産主義者は、「コミンテルンソ連共産党の下部組織」だった日本共産党(正式党名「コミンテルン日本支部」)に所属したのはほんの僅かしかいなかった。ほとんどは、治安維持法の網の目を掻い潜るため入党しなかったからだ。つまり、「コミンテルン日本支部」メンバーだけを原則対象とした治安維持法ザル法の極みで、共産主義者の九割以上を初めから無罪放免にした。

 結局、戦前日本で大増殖していた数千人のエリート共産主義者(非党員)は、帝国陸軍、高級官僚、帝大教授、新聞記者・雑誌編集者、政治家の、主に五つの職業に分散して繁茂し、治安維持法の対象外だった。政治家では近衛文麿や森恪、軍人では阿南惟幾や武藤貞一、官僚では白鳥敏夫や和田博雄、帝大教授では南原繁などがよく知られているが、これらは、数千人の中の0.1%未満。氷山の一角にもならない。

 そして、これらコミンテルンの直轄下にない日本人・共産主義者の中、かなりの者はソ連のGRUやNKGBGPUゲーペーウー工作員になった。帝国陸軍だけでGRU工作員になった将校や将軍は一千名を超える。米国の某調査では「大東亜戦争中の日本人ソ連工作員は、二千名を超える」とあるから、帝国陸軍日本人スターリン工作員のうち、五十%以上を抱えていたことになる。

 現に、陸軍中枢の参謀本部でも満洲関東軍の総参謀部でも陸軍省の軍務局でも、瀬島龍三・武藤章や服部卓四郎・辻政信などエリート軍人の過半はGRUの工作員だった。共産主義シンパだったが、ソ連工作員になる事だけは断固拒否した東條英機などは、“ソ連赤軍直轄の共産軍”が正体の帝国陸軍の中枢においては少数派だった。

スターリン1932年命令」→“古代史を改竄せよ”の共産党指針「歴史学研究会

 スターリンが「天皇制廃止を、日本の共産革命の中核とせよ」と、日本に命じた「コミンテルン32年テーゼ」は、日本共産党員に対して1932年6月から徹底された。が、二つの理由で「コミンテルン32年テーゼ」が戦前日本で力を持つことはなかった。第一は、日本共産党は1935年頃から潰滅的情況となり、その運動はほとんど力を喪失したからだ。

 第二に、戦前日本の天皇制廃止運動は、「コミンテルン32年テーゼ」よりも数年前、「愛国心」と「日の丸」で擬装し開始していた。例えば、ソ連共産党工作の成果の一つといえる1932年の5・15事件は、在京のソ連大使館が直接指揮した1936年の2・26事件ほど天皇制廃止を露骨に露わにしたものではないが、天皇制廃止がすでに含意されていた。現に、「コミンテルン32年テーゼ」は六月末だが、一方の5・15事件はその一ヶ月以上も前の五月。「コミンテルン32年テーゼ」は、すでに発車している天皇制廃止革命の後追い理論であった。

 だが、敗戦の1945年8月15日を境に、「コミンテルン32年テーゼ」は休火山が爆発したかのごとく猛威を発揮してフル稼働する。そして日本共産党は、「コミンテルン32年テーゼ」に従って、日本の歴史学者全員に、「日本の歴史全てを天皇制廃止で書き換え・改竄せよ」の命令書をばら撒いた。この命令書こそ、日本共産党・党本部の一部局である「歴史学研究会(1932年に河上肇が創設)が、その総会(1946年1月)で採択した論文の一部を1946年2月に印刷・頒布した『歴史家は天皇制をどう見るか(注1)であった。実態に合致するタイトルに改名すれば、『歴史家は、天皇制廃止の“人民の歴史”に、歴史を全面改竄しなければならない』、となろう。

 さて、通称「コミンテルン32年テーゼ」といわれる、スターリン日本共産党に命じた天皇制廃止の文書(注2)について、今では知らない世代がほとんどなので、以下、かいつまんで紹介する。原文はドイツ語。河上肇村田陽一の共訳。独文の「君主制廃止」に、「天皇制廃止」という新語を宛てたのは村田陽一。ドイツ語力は、河上肇より村田陽一の方が上であった。

 なお、通常使われる「天皇制」という言葉は、共産党員相互間の隠語で、「廃止」の二文字を省いているだけ。つまり、「天皇制」とは「天皇制廃止」と同義。このため、1960年代までの一般日本人は三文字魔語「天皇制」を使用することに心的に抵抗があった。谷沢永一は、死ぬまで三文字「天皇制」を使えなかった。私も、学術用語「天皇制度」と似て紛らわしいので、共産党語「天皇制」を見ると、今でも不快で苛立つ。  

 さて、スターリンの対日命令書「コミンテルン32年テーゼ」の正式名称は、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」。このスターリン命令書は、18のパラグラフからなる。その第五と第六パラが、天皇制廃止の部分。少し抜き書きしておこう。   

「日本の天皇制は、一方では主として地主といふ寄生的封建的階級に立脚し、他方ではまた急速に富みつつある強欲なブルジョアジーにも立脚し・・・それと同時に、日本の天皇制はその独自の、相対的に大なる役割と似て非なる立憲的形態で軽く粉飾されておるに過ぎない・・・。天皇制の粉砕は、日本における主要な革命的任務中の第一のものと見做さねばならぬ。」   

「従って、革命の当面の段階における主要任務は次のごとくである。    (一)天皇制の転覆。(二)・・・・・」(注2)。

 この「スターリン32年テーゼ」に基き共産党は、敗戦と同時に、“日本の歴史は、天皇制廃止の道具であるべし”を決定。この決定が、河上肇創設の“歴史改竄命令機関”「歴史学研究会」が開催した、1946年1月27日の綜合部会において採択された、『歴史家は天皇制をどう見るか』(注1)に、凝集された。なお、「歴史学研究会」の機関誌が、月刊『歴史学研究』。通称「歴研」。  

 「歴史学研究会」の学界と出版界に対する権威・権力は絶大で、岩波書店中央公論社あるいは集英社その他、日本史関係の出版は、「歴史学研究会」の指示・検閲の下に行われている。岩波講座『日本歴史』(備考)や同じく岩波書店の『日本歴史叢書』全16巻は、そのほんの一例。                 

(備考)1962~4年刊の「第二次」は全23巻。1975~7年の「第三次」は全26巻。  

 この歴史学研究会を通じての「日本共産党史観」=「コミンテルン32年テーゼ」が、学界における歴史研究の指針となり、歴史学は、真実を追求するものではなく、天皇天皇制度を断罪する“人民プロレタリアート歴史学”でなければならないとされた。これが、「古代日本は奴隷制社会であった・・・」などのマルクス主義史学と合体して、戦後の日本の歴史学界を支配するに至る。戦後すぐの「日本共産党史観」の代表が井上清羽仁五郎だった。「マルクス主義史学」の代表が藤間生大石母田正や渡部義通ほか。

 なお、“記紀罵り史学の元祖”津田左右吉は“天皇制を戴く共産党シンパ”なのに、どうした訳か、マルクス主義史学に対しては拒否反応が濃厚だった。

井上光貞/直木孝次郎/上田正昭ら“共産党系”古代史改竄史学を牽引した井上清  

 歴史改竄命令書『歴史家は天皇制をどう見るか』の中核論文は、井上清の「天皇制の歴史」。これは七年後の1953年に新書版の『天皇(=天皇制廃止の意味)』に収録され(注3)、この新書で『歴史家は天皇制をどう見るか』が実質的に広く頒布されたのと同じことになった。しかも、この新書はバカ売れで、東大生で読まなかったのはいなかったのではないか。

 ために、この「井上清ガイドライン」に違背する古代史研究論文は、学界で徹底的に検閲・弾圧された。1950年代と1960年代、孤高の坂本太郎博士と肥後和男グループぐらいが例外であった。しかし、坂本太郎を継ぐ弟子はおらず、肥後和男グループはポスト肥後で雲散霧消した。いや、坂本太郎肥後和男も、共産党史観に与しなかったことにおいて、共産党が絶対支配の古代史学界は、両名を抹殺した。現在、古代史マニアですら、日本書紀の原文復元で最も学術的な功績があった坂本太郎の名前を知らない。邪馬台国マニアの間で、「邪馬台国とは、大和朝廷のことだ」と、最も妥当な学説を展開した肥後和男の名前を知る者はほとんどない。

 話を戻す。井上清はこのように、終戦直後から、日本の歴史学界において「赤いローマ法王」然と君臨し、その著『天皇制』は歴史学界で違反者には“学界追放の刑罰”を与える異端審問用の「赤い聖書」になった。この情況は、基本的には今に至っている。井上清天皇制』の冒頭は、次のように、スターリンそのものの人民民主主義(=共産主義体制)ドグマで始まる。

「現代の天皇制は、ごく最近、今(1946年)から僅か七十八年前の、いわゆる王政復古を出発点として創られたもの。・・・。当時、人民の方では主権は天皇になくて人民にあることを明らかにした国家制度を作ろうとし、民共和制にしようとする運動さえあったのが、明治天皇や官僚や軍閥は、それに対してあらゆる手段を尽くして強圧に強圧を加え、一方では天皇制のための宣伝、教育、強制を続け、ついに1889年の第日本帝国憲法として天皇制を確立した」(1頁)。  

 日本共産党の学界に対する歴史改竄命令は、このように、日本を、ソ連北朝鮮のような人民共和制に革命するものでなければならないとするものだった。共産主義者にとって、歴史学は真実を追求するものであってはならず、あくまでも共産革命のための道具でなければならないのは自明の教理。井上清はこれを、冒頭で宣言したのである。次に、歴史は、マルクス共産党宣言』、並びにルソー『人間不平等起源論』と完全に一致しなければならないと、次のようにも、宣言(命令)した。

天皇ができるはるか前、縄文時代という)今から少なくとも四、五千年以上も前から、日本人はこの島に平和な自由な徹底した民主主義社会を楽しんでいた。すべての土地はすべての住民の共有であり、君主も無ければ、従って臣民という者も無かった」

「ほぼ紀元百年前後に、まだ古い氏族の共産民主社会がすっかり壊されはしないが、既に支配者と奴隷のいる小さな国家の始まりのようなものが、日本の各地にできたらしく、北九州の酋長の一人と思わる者が、紀元一〇七年に後漢の安帝に奴隷百六十人を献じたと中国の古い歴史に見えている」(4頁、丸カッコ内中川)

 笑止の余り、お腹が捩れた読者も多い事だろう。「縄文時代は、平和な自由な徹底した民主主義社会だった」とか「弥生時代中期以降ではまだ、共産民主社会がすっかり壊されてはいなかった」とかは、まさしくお笑いギャグで、“歴史とは全く無縁の、狂妄の嘘歴史”。「日本共産党史観」とは、かくも歴史の真実とは程遠く、マルクスとレーニンのドグマを信奉して真赤な嘘歴史を捏造すること。  

 そして、天皇制廃止への効能を有する“記紀ごろし”のため、記紀に対し罵詈讒謗の虚構づくりを煽動する。   

天孫降臨とか神武天皇の東征とか日本武尊の話とかが創られていった。それらをまとめたのが古事記日本書紀の神話伝説である。それらは日本民族の生活の中から産み出された自然の神話伝説ではなく、天皇の支配を神秘化し、天皇がはじめから支配者であったとするためにつくられたもの」(6頁)。  

 なんとも馬鹿馬鹿しい中傷誹謗のための中傷誹謗文である事か。なぜなら、例えば“皇室の内部で延々と八百年前から伝わる、皇室に固有の皇統譜(=皇室家系図)と伝承”を口誦での記憶継承から文字による記録に替えた『古事記』とは、初めから「日本民族の生活の中から産み出された自然の神話伝説」でない。自明すぎることではないか。

 しかも、『古事記』は皇室・皇族以外の者が読むことを想定していない。当然、“天皇大和朝廷による国家・国民支配”などとは一切無関係。さらに、皇統譜と伝承を記録するために採用した文字は、当時の日本人の99.99%以上が読めない、“漢字の天才”太安万侶が漢字を音借/訓借した宛て漢字(=符号)。これは、実際にも、太安万侶とその時の彼のアシスタント数名以外は何人も読めなかった。稗田阿礼ですら、読めなかったのではないか。

 ために『古事記』は、ほぼ一千年を経て本居宣長という天才国語学者が解読に成功したように、奈良時代後期には皇室内部ですら誰一人として読めなくなっていた。国民の誰も読まない読めないものが、どうして天皇の支配の道具になりうるのか。

 つまり、このような井上清の気狂いじみたデタラメ言説は、ダイヤモンドを「ガラス玉でない」と難癖をつけている狂人の狂語と同種。ダイヤモンドはダイヤモンドで、ガラス玉ではないのは、自明なこと。皇室だけに固有の皇統譜や皇室内部のみに伝承されてきた皇室伝承が、日本列島の各地に伝わる日本民族の神話や伝承でないのは自明な事。

 それよりも、嘘を吐くことが信仰告白のカルト宗教「マルクス・レーニン教」信者の井上清は、こんな馬鹿げたことを言いたいのなら、まずもって「日本民族の生活の中から産み出された自然の神話伝説」を提示し、“古事記が、これこれを捨象した/排除した”と個別具体的に主張せねばならない。が、『古事記』が編纂された712年時点であれ、それ以前であれ、「日本民族の生活の神話伝承」など存在したのか。存在していなかった。そもそも、「生活」は神話伝承なのか。生活は「民俗」であり、「神話伝承」ではない。民俗と神話伝承の区別もつかない共産党員・井上清とは“学者には程遠い革命運動家”であって、学者的な著作は何一つ無い。

 また、元明天皇は、古事記の編纂を、太安万侶と“記憶力の天才”稗田阿礼に命じると同時に、各地に残る神話伝承を含めた歴史と風物を記録せよと命じた。それが風土記。『出雲国風土記』などほんの一部が、逸文と共に、現在に伝えられている。これら『風土記』に残る神話伝承は、井上清の狂気の頭では、日本民族の神話伝承ではないらしい。共産党員の頭には、オウム真理教の信者よりも百万倍も狂った究極の狂気だけが詰まっている。正常や良心などは、1ミリも見当たらない。

上代天皇処刑が目的の“共産党員”井上光貞/直木孝次郎/上田正昭らの嘘歴史

 井上清の馬鹿げたトンデモ本天皇制』の分析解剖をし続けると、文量が数冊になるから、ここでいったん止め、話を前に進めよう。

 さて、井上清の『天皇制』、つまり「歴史は、天皇制廃止に最短で直結する嘘歴史の捏造でなければならない」との日本共産党史観の教本『歴史家は天皇制をどう見るか』をガイドラインにして、上代天皇を次々に日本の歴史から「処刑」=抹殺する“歴史の大改竄”を行うのが、共産党員古代史家の手口と実態。彼らが戦後から今日まで日本国の垂れ流した“嘘八百満載”の赤い著書群は、今では、すでに数千冊になった。

 それらが最重視するのは、何と言っても「上代天皇を、次々に日本の歴史から「処刑」=抹殺する“歴史の大改竄”」。その方法はかなり複雑多岐にわたるが、その一部が次のリスト。

  • 第一;“皇室専用の史書”『古事記』も、(人民ではなく、大和朝廷が編纂した)“日本国の正史”『日本書紀』も、ともに創作。だから、史書として全く信用できないものだ、両書に“中傷誹謗ラベル”を徹底的に貼り付けろ! これによって、現在の天皇も皇室も虚偽の皇統譜に依拠した皇位となるから、その尊貴性も血統の偉大性万世一系も劇的に毀損されるに至る。
  • 第二;この「創作説」をでっち上げるために、まず、神武天皇から開化天皇までの天皇九代を実在しないとして「処刑」的に歴史から抹殺せよ!
  • 第三;次に、成務天皇(第13代)/日本武尊/仲哀天皇(第14代)/神功皇后(第15代応神天皇摂政を「創作」として、これまた処刑的に抹殺せよ! すなわち、歴史上に突然、第10代・崇神天皇/第11代・垂仁天皇/第12代・景行天皇が“最初の天皇群”として現れることにせよ! そして、皇統が繋がらない第15代・応神天皇の新王朝が現れたことにせよ!

 上記の第三とは、基本的には井上光貞流の歴史偽造に代表される(注4)。直木孝次郎は、この井上光貞の歴史偽造に便乗し、景行天皇(第12代)まで血が皇統とは別だの捏造をする(注5)。このような天皇「処刑」という歴史偽造は、1960年代に山場を迎えて終焉したわけではない。それから四十年が経った2008年ですら、学者として六流以下の共産党員・矢嶋泉などが執拗に繰り返している(注6)

 本稿とは、スターリンの対日命令「コミンテルン32年テーゼ」→『歴史家は天皇制をどう見るか』が、すでに八十六年も経つのに、今なお凄まじいテロル的な威力を日本の歴史学界に対して発揮しているかを明らかにするもの。日本の古代史学界とは、今も、スターリンの亡霊に足の先から頭の天辺までいかに呪縛されているかを明らかにするもの。

 井上光貞は、「応神天皇とは、入り婿で、皇統にないのに皇位に就いた天皇」だと主張する(注4)。具体的には、景行天皇の曽孫にあたる皇女「なかつひめ」と結婚し新王朝を創ったとするが、井上光貞は、応神天皇の出自については何も語らない。応神天皇には父も母もおらず、天から降ってきたか地から湧いたらしい。

 上品な悪魔のようなサイコパス共産党員・井上光貞が描く歴史は、暴言妄語を超える、まさしく暴史狂史の典型。歴史学的な根拠をいっさい示さずに、杜撰な三流小説以下の戯れ話をし続ける異様な「学者」である。

 井上光貞や直木孝次郎が、実在する「成務天皇/日本武尊/仲哀天皇/神功皇后ほか」を歴史から抹殺するのは、神功皇后を「処刑」して不在にするのが主目的。朝鮮側に立っている彼らは、神功皇后による三韓征伐の歴史事実をどうしても隠蔽したいのである。だから、日頃は、「記紀は信用できないが、支那や朝鮮の史書は信用できる」と言いながら、『三国史記』の次の記述に関して、日本のどの天皇が指揮したのか、口を拭って一言も発しない。

「倭兵、にわかに風島に至り、辺戸を抄掠す。また、金城新羅の首都)を囲み、はげしく攻む」(紀元後346年新羅本紀)

「倭兵、大いに至る。王、これを聞き、おそらくはあた(敵)るべからずとして、草の偶人数千を造り、衣を着せ、兵に持せしめて・・・。倭人、衆を恃み、直進す。・・・」(紀元後364年新羅本紀)

倭人、来りて金城を囲む。五日になるも解かず。・・・」(紀元後393年新羅本紀、注7)。  

 上記新羅攻めにおいて、三つ侵攻のうち少なくとも一つは、神功皇后新羅に上陸したか、上陸せずに、海岸に近い海上からかはともかく)戦場近くまで進出して総指揮を執った“親征”である。このことは、『三国史記』の記述と『古事記』の記述が完全に一致することからも、ならびに九州と壱岐対馬に残る無数の伝承からも、十分に実証されている。

 後者の伝承は、例えば、博多湾に浮かぶ能古島の向かい側で、地下鉄終点「姪浜駅」に近い小戸(おど)公園に小戸(おど)大神宮がある。ここより神功皇后は出撃され、また帰投されたと、言い伝えられている(注8)。仮に、神功皇后新羅征伐が大和朝廷の「創作」ならば、約百に近い新羅征討の神功皇后伝承が福岡県や対馬に今に残っているはずはない。大和朝廷は、記紀編纂時に、これらの地に赴き「嘘伝承を造れ」と命じたとでも言うのか。

 ところで、393年の新羅攻めが応神天皇の指揮なのは定説だが、神功皇后新羅攻めは346年と364年の双方か、346年のみかの定説はない。346年に神功皇后新羅親征をされたならば、応神天皇は翌年にご誕生なので、393年の新羅攻め時の応神天皇のご年齢は四十六歳ということになる。364年の新羅攻めは、神功皇后であろうが親征ではなく、大阪湾に近接する大本営で指揮したと思われる。この時、応神天皇は満17歳。なお、神功皇后崩御は371年に仮定する。  

 この神功皇后を「処刑」抹殺するには、その「夫」仲哀天皇を「処刑」で消しておかねばならず、仲哀天皇を消すには、その「父」日本武尊も処刑・抹殺しておかねばならない。そして、日本武尊「弟」成務天皇も消しておけば、神功皇后が完璧に空中楼閣の絵空事になる。  

 だが、上記の歴史改竄は、応神天皇の即位371年と崇神天皇崩御258年の間を「百十三年」とし、この百十三年間に垂仁天皇景行天皇の二天皇だけが在位したとするもの。が、これでは歴史の辻褄は合わない。例えば、『三国史記』に拠れば、笑止にも景行天皇が346年と364年の新羅征伐を行ったことになる。景行天皇は、むろん364年には崩御されておられ、非在である。

 これほど馬鹿げた/見え透いた“井上光貞の真赤な嘘史学”が、これまで五十年間以上も糾弾されなかった理由は、古代史学界が共産党の完全支配下にあるが故で、もしそうでなかったら、STAP細胞小保方晴子と同じく、とっくに井上光貞は学界から追放されている。

大和朝廷の発祥を三百年遅らせるのは、“日本は野蛮な後進国”キャンペーンが狙い

 上記の、数多くの古代天皇を歴史から「処刑」抹殺する歴史偽造と一体化しているのだが、“記紀ごろし”は、「日本は支那や朝鮮に比してずっと遅れた野蛮国であった」とのキャンペーンを兼ねている。また、日本が新羅/百済(四世紀から七世紀にかけ)丸三百年にわたり属国としていた歴史事実を隠蔽するのも、朝鮮史観に立ち「日本は後進国(当時の文明に遅れた野蛮国)、朝鮮は先進国」の歴史捏造のためでもある。

 戦後日本における歴史改竄は、『日本書紀』が唐帝国に対し後発の中級国家・自国をビッグかつ文明国に見せるべく、シナの讖緯説を「科学」と勘違いして六百年ほど歴史を遡らせたが、これとは似て非なる、天皇制廃止と対日憎悪感情を爆発させての、三百年ほど歴史を遅らせる犯罪意図をもっての歴史改竄である。

 例えば、実在について疑う余地なき神武天皇から開化天皇までの九代天皇の抹殺も、この初期大和朝廷の誕生が紀元0年から紀元後20年頃だったのに、初代を第10代の崇神天皇とすればそれを一気に約250年間遅らせることができるからである。崇神天皇崩御年について258年説と318年説が拮抗しているが、第11代・垂仁天皇による伊勢神宮の遷御が297年である事、崇神天皇が造営を指揮した箸墓が今では考古学的に三世紀後半だと断定されている事などの諸歴史事実と整合するのは、「崩御258年説」の方だけである。

 紀元後一世紀から奈良盆地と大阪湾を支配地とする大和朝廷の国と同一な「邪馬台国」を、さも「やまとのくに=大和朝廷ではない」かに非学術的論争を執拗にし続けているのも、“大和朝廷は「邪馬台国」の消滅後の三世紀末に突然、奈良盆地に叢生した”との嘘歴史を妥当づけるトリック。そもそも「邪馬台国」は「やまとのくに」の宛て漢字で日本製。それを、わざわざ無理筋の読み「やまたいこく」と呼称させる歴史学界の犯意は見え見え。「台」は「と」にしか読めない。

 『隋書倭人伝』ですら、日本国のことを「邪摩堆(やまと)に都する、すなわち『魏志』のいわゆる邪馬台国なるものなり」としている(注9)邪馬台国大和朝廷でないとする作為や論争は、何らかの悪意と情報工作なしには発生しない。  

 

注  

1、歴史学研究会『歴史家は天皇制をどう見るか』、1946年2月に刊行。が、この時の出版社を私は不知。私が蔵書している「新生社」版は、1946年8月末に出版された。

2、『現代史資料』第14巻、「社会主義運動 1」、みすず書房、617~9頁。  

3、井上清天皇制』、東京大学出版会、1953年。新書版。引用頁数は、本文カッコ内。  

4、井上光貞『神話から歴史へ』、中公文庫、302~3頁、306頁。  

5、直木孝次郎『日本神話と古代国家』、講談社学術文庫、25~8頁。直木は、応神天皇は、大阪平野の豪族出身で、それ以前の大和朝廷とは皇統の繋がりはいっさい無いとする。また、成務天皇仲哀天皇も非在だという。基本的には、恐ろしい人格の“三流小説家”井上光貞の二番煎じ。  

6、矢嶋泉『古事記の歴史意識』、吉川弘文館、154~84頁を見よ。共産党員・矢嶋泉は病的な妄想癖がひどく、精神病院から脱走中なのだろう。自分の狂妄だけで、(不在の)皇統譜」なるものをでっち上げ、記紀とは、この皇統譜をかくかくかように改竄したものだと言い募る。古代史学界は、“狂人が群れる学界”と言わざるを得ない。

7、『三国史記倭人伝』、岩波文庫、39~41頁。  

8、『神功皇后伝承を歩く』下巻、不知火書房、87~9頁。  

9、『魏志倭人伝 他三篇』、岩波文庫、128頁。

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