中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

“記紀ごろし”成って、皇室亡ぶ ──赤い古代史を粉砕し、古代史に日本を取り戻そう(2)

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒

 津田左右吉は、“知的劣等集団”民族系が、その著作をもって「不敬だ」と大騒ぎして、ために、この一時的な馬鹿げた流行に追随した内務官僚たちによって出版法違反で起訴され、そして何時しかうやむやの渦中で免訴された。民族系のバカ騒ぎが産んだ「学問の自由侵害事件」が逆効果となり、ブーメラン的に津田左右吉は戦後日本の学界で“英雄”となった。

 具体的には、不当起訴と闘った津田左右吉は、戦後日本において一気に、さも学界の大権現かような“古代史の大権威”に祭り上げられた。この結果、共産党員や共産主義者の古代史研究者は、津田左右吉の権威とその史学をもって、スターリンの命令「コミンテルン32年テーゼ」を公然と奉戴することができ、古代史を天皇制廃止の政治道具にすることに成功した。この急先鋒が井上光貞応神天皇始祖説)/家永三郎/直木孝次郎らであった。笑止千万な「三王朝交代説」を唱道した“大法螺吹き”水野祐も、典型的な津田左右吉史観の狂信者であった。

 しかも、共産党にとって好都合なことに、津田左右吉は、コミンテルンとは一切関係がなかった。共産主義イデオロギーとも無縁だった。ただ、ひん曲がった五寸釘よりもひどい、妬みと僻みでねじ曲がった津田左右吉の錆びつき腐りきった人格が、『古事記』『日本書紀』にただひたすら罵詈雑言を投げつける異様な学問の情念源であった。

 津田左右吉共産主義者ならば、彼への攻撃はいとも簡単で、誰にでもできた。だが、人格がひん曲がっているのが病原体の津田左右吉の“記紀罵り史学”に対して、批難や攻撃をしたいならば、純学問的にしか行いえない。必然的に相当な学者以外では、“古代史学者として日本一”津田左右吉への批判は全く不可能。

 戦前の民族系が津田攻撃の方法として不敬罪の代替としての出版法違反起訴を政府に猛圧力をかけたが、この浅薄な行動は、民族系が学問論争で津田史学をぶっ潰せない、自らの無学・無教養ぶりを恥ずかしげもなく露出した証左であろう。

 津田の学者としてのレベルは高く、肥後和男博士ですら、真正面からの津田攻撃は無理。故に、健全な精神と常識の持主だったのに、肥後和男には結局、津田史学への非難論文が一つもない。「津田史学」非難が可能だったのは、ただひとり坂本太郎博士だけだったろう。が、他人と争うのが嫌いで温厚篤実な坂本太郎は、そんなことをするはずもないし現にしなかった。かくして、津田左右吉を神輿に担いで、有名無名の数十名に及ぶ共産党系学者のやりたい放題が、戦後日本の古代史学界を席捲した。

坂本太郎博士の“間接的な津田史学批判”を紹介する

 序なので、坂本太郎が、(第1代から第9代までの天皇歴史学的には存在していないとの暴走仮説をぶち上げた)津田左右吉史学を物静かに間接的に論難している箇所が、『著作集』吉川弘文館の中に散見される。その一つを紹介する。

 坂本太郎は、天皇諡号については実名の記憶がない天皇には和風諡号なのに実名の記憶が残る天皇にはこの実名にするなど余りに記述がバラバラにすぎる、御所・政庁の場所が拡散的にバラバラなのも創作が不可能、后妃の名前と出自に関する家柄での差別がない(皇后の制度がまだなかった通り)のも創作が困難、などと反駁している(注1)。表1参照。

 これに、私が中学2年生(13歳)から高校一年(15歳)の夏休みに何度か読んで少年時に直覚した「第1代神武天皇から第9代開化天皇までの天皇の記述行数が極端な差は、記録や記憶が散逸した通りに、つまり記憶・記録されていない天皇については手を加えずそのままにした証拠ではないか」「創作の作文ならば、行数がほぼ同じになるように書き加えるはず」も、表1の最後に添付。      

表1;坂本太郎が、「古事記記述は創作」と見做す津田史学は間違いとする根拠例

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(備考)記述行数は、『古事記』、日本古典文学大系岩波書店  

 『古事記』の第1代~第9代天皇の記述には、「日本国の天皇」を意味する、六世紀頃に自然発生的に生まれた和語「おほやまとたらしひこ」などの若干の言葉を除き、創作は全く加えられておらず、伝承を忠実に記載した史書と考えることにおいて、坂本太郎と私は完全に一致する。が、「すきとも」「ふとに」「くにくる」が実名でないとするのは合点がいかない。  

 また、第五代の孝昭天皇が、播磨兵庫県を自ら軍を率いて武力制覇したことは『播磨風土記』に明記されているし、マクロ的な史実とも整合し問題はない。坂本太郎はなぜ、これをもって、「孝昭天皇の実在は証明されている」と主張しなかったのか。同様に、『古事記』は、第7代孝霊天皇が吉備の国岡山県広島県の東部)を武力制圧して服属させたとする。これもマクロ的に歴史事実と何ら矛盾しないから、孝霊天皇の実在も確定する。がなぜ、坂本太郎は全国武力統一をほぼ完成させる崇神天皇/垂仁天皇/景行天皇の前段階として、神武天皇から開化天皇までの九代の(その実在をもっと確実に証明できる)武力膨脹行動について一言も言及しなかったのだろう。  

 もう一つ、坂本太郎に苦言を呈したい。『後漢書』倭伝には、「(紀元後57年)倭の奴国、奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬をもってす」の次に、「(107年)倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」という一文が続く。この帥升が第五代孝昭天皇であろうことに疑問の余地はなかろう。そして、播磨の国を攻略し捕らえた投降兵士が1千名を超えるならば、このうち「百六十名」を奴隷として後漢楽浪郡に献上するのは何でもないし、捕虜の処理方法として一石二鳥。  

 そればかりではない。小国の「奴」国が金印をもらった事実を聞いて、(現在の奈良県/大阪府/兵庫県を制圧した)当時の日本における最強の国にのし上がった初期大和朝廷は、心穏やかではなかっただろう。自分も金印を下賜してもらおうと、「奴」国の遣使を帯同して魏帝国の楽浪郡朝貢したことは目に見えてくる。しかも、107年の時点、軍事力の差から(博多と那珂川流域の平野を掌握するだけの小国)「奴」国は実態としては大和朝廷に半・服属しており、後漢との仲介の労をとるのを厭う理由も情況もなかったはず。  

 要するに、第5代孝昭天皇の実在を疑う方が、“反・歴史”の極みではないか。なお、古代史学者全般に共通する欠陥だが、神武天皇以来の大和朝廷の軍事的制圧の歴史年表を描こうとはしない。その理由は、この歴史年表を描けば、神武天皇から第12代景行天皇に至る大和朝廷の天下統一の歴史事実が明らかとなり、神武天皇孝昭天皇/孝霊天皇の実在が証明され、戦後数十年にわたり厚くペンキで塗り固めた“大嘘”「第9代以前の天皇は、実在しない」という“歴史の大偽造”が一瞬で剥がれ落ち、崩壊してしまうからだ。

「“デタラメ考古学”栄えて、“古代史の骨髄”記紀滅ぶ」  

 話を坂本太郎上記論考に戻す。歴史学は、歴史を観る者の人間性の正常や健全に左右される。つまり、歴史学者は、坂本太郎のような優れた人格者であることが要求される。これについて、坂本太郎津田左右吉の追随者たちへの)次の警句は、パスカル級の箴言に思えてくる。  

「古伝であっても伝承は伝承にすぎず、(第9代以前の)古代天皇の系譜は歴史事実とは認めがたいという(津田史学の狂信者の)意見も当然起こるであろう。しかし、そこまでくれば、各人の歴史観ないし、その根底を支える人格の問題であって、いかんともする術はない」  

「疑い(=記紀への難癖)は学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれに取り憑かれているとのは救いがたい迷い(=迷信の狂信)だということも忘れてはなるまい」(丸カッコ内中川、注1)

 さて、話が変わるが、「神武天皇から開化天皇までの記紀嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。

 魏志倭人伝にある「邪馬台国」という漢字表記は、紀元後230年代、「奈良県/大阪府/兵庫県/岡山県/香川県/愛媛県」等をすでに武力統合した大和朝廷が、まだ「日本国」と言う国号はできていないが、自国名を我流の“宛て漢字”で作った初の“日本製の漢字表記国名”である(注2)楽浪郡支那が、「奴 な」国からの遣使に「国名は?」と問うて、「がくに」と答えたこの「わ」を表音漢字として「倭」を宛てたが、それから二百年、日本はついに国名表記変更を願い出た。が、魏はこれを一蹴し、「親魏王」として「倭」を変えなかった。こんなトリヴィアなことは、どうでもいい。問題は、「邪馬台国・九州説」が、紀元後すぐの頃にはすでに畿内大和に歴史事実として君臨した神武天皇と、その後の八代の天皇を実在しないとする詭弁やトリックになっている問題。

 「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡佐賀県をもって、人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。  

 だが、大和朝廷は、「親魏倭王 卑弥呼」が金印紫綬を下賜された239年には、「奈良県/大阪府/兵庫県/岡山県/香川県/愛媛県」等をすでに統合していた。その人口は100万人を越えよう。少なくとも、奈良県大阪府の域だけでも「35万人以上」は自明。

 要するに、「邪馬台国・九州説」とは、次の荒唐無稽な馬鹿げた妄想に耽る歴史偽造屋の戯言なのだ。

A、紀元後250年直前頃に即位した崇神天皇は実在するとしているから、「日本最大量の強大な武器とその軍隊派兵用の富を有して、全国の未制圧地域への武力制覇を展開した崇神朝廷は、忽然と奈良県大和盆地に誕生した」という奇説と同じになる。これは「崇神王朝の出現前の大和盆地には、国家統治機構を持つ「くに 国」はなく、人口まばらな弥生前期的な稲作がなされていたに過ぎない」との謂いでもあるが、これは畿内の古墳や遺跡と一致しない。

B、「崇神朝廷は、九州の邪馬台国が東遷したのであるから、突然、畿内に出現しても何らおかしくはない」は、悪質なペテン詐言。なぜなら、それは、モーゼに率いられたディアスポラするユダヤ人のごとくに、「35万人以上の九州人」が、一緒に同時に移動したと主張することになるからだ。何とも絶句する非現実の極み。崇神天皇が九州から畿内に移動したことを示す根拠は一つも存在しない。そればかりか、35万人の移送用の船舶はどうした? 35万人の移住期間中の食料はどうした? それらが開拓して自給自足の米生産ができるまでの三年間の食糧はどうした? ・・・・・どうした? このような「どうした」が数十ヶも書き連ねることができるのは、空前絶後のペテン説だからだ。   

 考古学者とは、お客を騙して贋物を高額で売りつける“骨董屋のおっさん”と同類の人士。人間の営みである歴史など全く分からない。それ以上に、日本古代史にしゃしゃり出る日本人や朝鮮人の考古学者は、古事記日本書紀を頭ごなしに否定し排斥しているから、どんなに重要な考古学的発見をしても、決して日本の歴史研究に役だつことがない。彼らは、考古学を歴史学にドッキングさせる「古事記」「日本書紀」という羅針盤を持っていない。  

 端的に言えば、考古学もまた、「津田左右吉井上光貞/直木孝次郎」らと車の両輪となって、“記紀殺し”に専念している。「考古学栄えて、記紀滅ぶ」が、日本古代史学界の現実で惨状といえる。

卑弥呼=ももそひめのみこと」「邪馬台国大和朝廷の版図」以外の歴史など無い

 『魏志倭人伝』を一読したとき、多少の教養があれば、それが特記する「卑弥呼」が、第七代孝霊天皇の皇女「やまとととびももそひめのみこと」にそっくりだとすぐさま感じてこそ常識ある日本人。「ももそひめのみこと」は、大和朝廷における神宮の斎宮であった。  

 当時の神宮は伊勢ではなく大和盆地にあり、ほとんどの場合、天皇の御所・政庁の近傍にあった。なお、伊勢への神宮遷御は、第11代垂仁天皇の下、その皇女「やまとひめのみこと」が斎宮となって挙行され、297年である。この時、朝廷の政祭分離が初めて完成した。この政祭分離はまた、神宮斎宮天皇の大権を浸食するのを阻止するためでもあった。   

 話を戻す。「やまとととびももそひめのみこと」が魏志倭人伝卑弥呼ではないかとすぐさま思い付くのは、皇女の墓としては例外的に巨大な前方後円墳「箸墓」奈良県桜井市の大きさと魏志の記述「径百余歩」が一致するからだ。卑弥呼薨去(247~8年)と箸墓の造成時期も完全に一致する。  

 「やまとととびももそひめのみこと」を魏の遣使が「倭王(=天皇と思い込んだ理由は、「ももそひめ」は神宮斎宮でありながら、第八代・孝元天皇/第九代・開化天皇から外交権を簒奪的に掌握していたか、両天皇に対して神功皇后と同じ“摂政”だったからだろう。後者であれば、当然、墓が天皇と同格になる。  

 魏の遣使が「ももそひめのみこと」を「倭王(=天皇と思い込んだもう一つの原因は、その舘や舘が位置するミニ都の故だろう。纏向遺跡から「ももそひめのみこと」の宮室──東西に並ぶ四つの建物──らしきものが発掘された(注4)。その北側に近接するだろう神宮の方はまだ発掘されていない。

 この宮室と神宮の周りには、播磨や吉備むろん大和の豪族たちの若い娘たちが一種の巫女的な修行を兼ねて参集していたようだ。『魏志倭人伝』の「婢千人をもって侍せしむ」がそれ。実数は数百名を超えていたということか。「殉葬する者、奴婢百余人」とは、このうち百名が殉死を選び箸墓に葬られたということか。

 さて、鉄を産出する吉備の国を制圧した第七代孝霊天皇(180年頃に)造営した“ミニ都”纏向遺跡は、天理市柳本駅(鉄道・桜井線)の南あたりが北端ではないか。そして、この線より南側で田原本町に入った所に、孝霊天皇の御所と政庁が建立されていたと推定される。仮にそうだとすれば、纏向の“ミニ都”は、三世紀初頭の日本では破格の大きさとなろう。

 孝霊天皇は遅くとも200年頃までには崩御され、孝霊天皇の御所・政庁はがら空きとなっている。その後は、表1にあるごとく、第8代天皇は御所・政庁を橿原市に、第9代天皇奈良市に移しており、両天皇摂政だったとしても「ももそひめ」が“ミニ都”纏向ではただ一人の頂点に君臨されていた。これを見た魏の遣使が「ももそひめのみこと」を「天皇」と見做すのは自然だし、おそらく大和の民もそう思っていただろう。

 そろそろ本論の核心に入る。注4にある石野博信のブックレットを読んだ瞬間、「纏向遺跡を“非在の幽霊”邪馬台国に比定することは、纏向遺跡を“亡霊”化することに他ならない」と、墓場に連れ込まれた既視感に襲われた。著者・石野博信が死人なのに墓場から起き上がって、私を死者の“ミニ都”纏向を案内しているかに感じた。

 だが、私のように、纏向遺跡を『古事記』や『日本書紀』の中に“発見”して、吉備の国を制圧してトテツモナイ富を得た孝霊天皇が“ミニ都”を造営したのかな、その皇女「ももそひめのみこと」は神宮斎宮摂政とを兼ねていたのだろうか、魏の遣使は大阪湾までの大海用の船から大和川の河口で降り河川用舟艇に乗り換え、両岸から大勢の日本人農夫が引くロープで牽引され大和川を遡行して、「ももそひめのみこと」が祈祷する祭祀の都へと向かったのだろうか、などと想像する時、纏向遺跡は生き生きと生命を得て千八百年間の時を超越し現在に飛び跳ねる。

 『古事記』と『日本書紀』が、纏向遺跡に、“魔法の命の水”を振り注ぐのである。しかし、外国人の見聞記『魏志倭人伝』からでは、纏向遺跡は、死者の遺した市場価値ゼロの骨董品が散ばる墓場でしかない。考古学と支那の古文書に基づく古代史は、日本人から日本人の歴史を剥奪し、日本人をして歴史無き夢遊病者に改造している。

 

注  

1、『古事記日本書紀』、坂本太郎著作集 第二巻、吉川弘文館、234~41頁。  

2、メイド・イン・ジャパン語「邪馬台国 やまとのくに」を、支那側の一部文献では、「台=臺」ではなく、これを誤記して「壹」としている。これをもって「邪馬壹国」こそ正しいと大騒ぎするコミュニスト古代史作家がいる。古代史研究者の人格と脳内を、精神科医に徹底的に診断・スクリーニングさせる必要がある。  

3、鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』、講談社学術文庫、52頁。  

4、石野博信『邪馬台国の候補地 纏向遺跡』、新泉社、41頁。

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