中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

邪馬台国・九州説は、「天皇制廃止」の極左運動 ──講座「日本は、古代史を歴史学的に再建できるか」の開催お知らせ

中川八洋「特別ゼミ」事務局長   吉田 寿太郎

 大東亜戦争軍事史・戦史・外交史に関しては“斯界の権威”で歴史家としても突出して我が国ナンバー・ワンの中川先生が、この度、古代史or古代史学界に対し本格的なメスを入れることになりました。学派的には中川先生は、坂本太郎博士(東大教授、1945年~62年)を私淑する坂本太郎史学の系譜にあります。内藤湖南(虎次郎、京都帝大教授)の流れにあるともいえましょう。むろん古代史に関し中川先生は、ヒストリアンではなく、敢えて言えば「古代史学界の学説史/学術的方法論」の研究者です。

 日本の古代史学界は今、考古学者に簒奪されて、学問的には歴史学ではなくなっているのが実情です。考古学は歴史学を補完するもので、決して歴史学にとって代わることはできません。が、1990年代以降の日本では、歴史学としての古代史は徹底的に破壊尽されて不在となったと言えます。  

 そればかりか、支那史料を崇拝・狂信しこれを絶対視して、我が国の史書『古事記』『日本書紀』を完全抹殺しているのは、日本の古代史学界が学術的な活動ではなく、“記紀つぶし=天皇制廃止”の政治闘争・イデオロギー運動に専念していることの証左です。「日本の古代史は、コミュニストに占領された/マルクス史観で全面的に捏造されている」と深く憂慮して、古代史を日本国民の手に取り戻そうと人生を賭した肥後和男博士東京教育大学教授、1943~63年)の無念を、われわれはもう一度嚙みしめる必要があるように思います。しかも、現在の惨たる情況は、肥後和男時代の数千倍、数万倍も悪化しています。戦後日本の古代史を、コミュニストの政治闘争の道具に貶めた元凶・津田左右吉史学井上光貞らの害毒から救出することは、日本国の歴史を護るための焦眉の急と言えます。  

 また、上代語ともいわれる弥生時代から八世紀までの日本語(和語)に忠実であることが古代史を政治闘争から学問に戻す最低条件ですが、中川八洋先生は、“和語の復権”に並々ならぬ情熱を傾けています。中川先生の書庫には、「文字及び仮名遣の研究」「国語音韻の研究」「上代語の研究」『橋本進吉博士著作集』第三冊/第四冊/第五冊、岩波書店、1949年/1959年/1951年や、『古事記大成3 言語文字篇』、平凡社、1957年などが並んでいるのは、この一環でしょう。  

 ともあれ、この講座「日本は、古代史を歴史学的に再建できるか」の第一回「特別ゼミ」を、来る2月17日(土曜日)午前11時半から二時間半、通しで(休憩ゼロ分、ホテル製の昼食はゼミ中、中川先生は昼食抜き)、都内のホテルで開催します。参加希望の方は、私宛、2月3日午後5時までに、「氏名、生年月日、住所、固定電話番号、卒業大学・学部名」を明記の上、以下のメールアドレス宛てにご連絡ください。

 

nakagawamagazine@gmail.com

 

 希望された方には直ちに「入ゼミ申し込み書」を郵送いたします。

(1月28日記)

 

 

【第一回ゼミのモチーフ】  

 本講座『日本は、古代史を歴史学的に再建できるか』は、三回を予定しています。第二回/第三回は、1991年の昭和天皇崩御を機に大量に発刊された、(大学教授の肩書の有るものが著者の、よく売れている)古代史関連の出版物約150冊を俎上に挙げて、その“非・歴史学性”“政治運動文書性”を一刀両断に解剖していきます。むろん、例えば、西郷信綱の『詩の発生』(1960年)など1991年以前のものでも重要なものは脱漏することなく言及する予定です。  

 今般の第一回は、この第二/三回の入門的なものですが、「古代史の歴史学とはどうあるべきか」の根本を明らかにすべく、具体的に事例として今日の「邪馬台国・九州説」をとりあげます。それは、戦前の「白鳥庫吉内藤湖南の論争」のような学術的な性格のものを失い、露わな“反・歴史学”が顕著です。このような「邪馬台国・九州説」の“反・歴史学”性を証明するために、いくつかの仮定を設けます。ほんの一部を以下に紹介しておきます。

1、「卑弥呼」を第7代孝霊天皇の皇女「ももそひめのみこと」に比定する。「ももそひめのみこと」が神宮の斎宮に就かれたのは紀元後186年、その薨去は247年。当時は、天皇(おおきみ)の政庁と神宮とは、同じ皇居内に建立。神宮の方が政庁より巨大建物?

 また、天皇の大権は、しばしば神宮の斎宮に移行していた。天皇斎宮とは実の姉弟の関係が多かった。「ももそひめのみこと=卑弥呼」の陵が、現在の奈良県桜井市の箸墓。

2、第10代崇神天皇の即位は246年、崩御は258年。神宮を初めて皇居の外三輪山の麓)に遷御。

3、「台与」を崇神天皇の皇女「とよすきいりびめのみこと」に比定する。その神宮斎宮就任を252年に仮定する。すでに皇居外に移動していた神宮の斎宮であるのに外交権を掌握しており、266年、晋に朝貢。この時の御代は、弟の垂仁天皇

4、第11代垂仁天皇は、神宮の斎宮を「とよすきいりびめのみこと」を、自らの皇女「やまとひめのみこと」に交替させて、神宮を奈良県大和盆地から遠方の伊勢に遷御。紀元後297年。これにより、天皇が内政・軍事・外交の大権すべてを掌握。天照大神も「天下のきみ」から、太陽神に限定。

5、纏向遺跡は、紀元後180年に、第7代孝霊天皇が造営した皇居か? 現在の発掘を天理市側の「やなぎもと」一帯まで広げれば、現在の二倍程度になるではないか。そうすれば、皇居内で北側に天皇の御所・政庁、南側に斎宮の宮室と神宮の全貌が明らかになる?

6、後漢書の「107年の・・・師升」を第四代・懿徳天皇or第五代・孝昭天皇に比定する。とすれば神武天皇の即位は、紀元後20年頃か? 『日本書紀』の神武天皇は「はじめてあまのしたしらす すめらみこと」と訓むべきで、「最初の天皇」と言う意味。一方、崇神天皇は「はつくにしらす すめらみこと」と訓み、「初めて国家の天下統一をした天皇」と言う意味。

 上記に挙げた仮定の歴史年表を、私は「これが、正しい」などと主張する積りは毛頭ありません。ただ、「邪馬台国・九州説」「邪馬台国の東遷説」と詳細に比較をして、後者がいかに荒唐無稽な思い付きの羅列に過ぎないかor歴史学的な根拠薄弱も度が過ぎる詭弁/強弁だらけか、を明らかにしたいのです。この一つのケース・スタディから、「古代史の歴史学とは、非・合理的根拠が相対的に少ない方をもって確定していく作業」「古事記日本書紀が基本史書である」ことを学んで欲しいのです。

 ともあれ、この講座第一回では、邪馬台国問題のケース・スタディのほか、津田左右吉井上光貞、直木孝次郎らの学説を俎上にあげクリティークしていきます。参加者は『古事記』の初代・神武天皇から第十二代・景行天皇までを読んできて下さい。もし時間がある方は、奈良県桜井市箸墓古墳纏向遺跡を見学されてはいかがでしょう。

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

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