中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

“忠魂”森赳師団長の銅像を皇居前広場に建立しよう ──昭和天皇を護るべく、“スターリン狂”阿南惟幾の凶刃に死す

筑波大学名誉教授    中 川 八 洋

 また、8月15日が廻ってくる。何時の頃からかがはっきりしないのだが、8月14/15日が来ると、腐敗し尽して愛国心を失った“生物学的ヒト”となった日本人への怒りが必ず込み上げてくる。この怒りの対象に当初「民族系/靖国神社」の言葉を使っていなかったことを思い出すと、1983年以前の1970年代前半、私が25歳を過ぎた頃に始まった怒りのようである。

 それは、8月15日正午の昭和天皇の「ポツダム宣言受諾の玉音放送」を阻止すべく、昭和天皇を監禁し、場合によっては銃殺まで予定した、スターリンと通謀したコミュニスト阿南惟幾陸軍大臣が首謀の“反・終戦”宮城クーデタを、文字通り命を捨てて阻止した森赳・師団長(陸軍中将)を頌詞する声が皆無である事への怒りである。のち自決する田中静壱・東部軍管区司令官(陸軍大将)の毅然たる叛乱鎮圧が日本国を救ったことへの感謝が皆無であることへの怒りである。

 要するに、昭和天皇を監禁し脅迫して「ポツダム宣言受諾せず/一億玉砕するまで戦争続行」のニセ詔書渙発せんとした“悪魔の共産主義者たち”から、祖国日本を守った“真正の日本軍人”森赳/田中静壱を完全に無視する“反日の極み”が、国民的コンセンサスとなっている日本の異常な逆立ち状態への怒りである。

 ために、8月14/15日になると私は、祖国日本を守るに命を捨てた武人の荒ぶる魂を鎮める事もしない日本とは既に精神において滅んでいると透視して、“歯噛みする憂国の至情”が迸るのを抑えることができない。また、“日本最高の英霊”森赳と田中静壱とが大書されて靖国に祀られているのか、不安でならない。

(備考) 後者の事実を知る方は、是非ともご一報いただければ幸甚です。

昭和天皇への叛逆奨励と天皇制廃止を煽動する半藤一利『日本のいちばん長い日』  

 俗に「宮城ク-デタ事件」と称されているが、日本国民なら決してあり得ない勅命を転覆せんとする赤い陸軍中枢部の、昭和天皇への暴虐な大叛逆事件を、何か小さな歴史の一コマに過ぎないとして安直に扱うか、「ソ連人」で“世紀の叛逆者”阿南惟幾らの方を「愛国者である」かに逆立ちさせて扱うかが、何時の間にか日本では定着してしまった。

 愛国者(真正の日本国民)と叛逆者ソ連人)の事実を転倒した赤色史観流布の最大の元凶は、1965年に出版された共産党員の)半藤一利著『日本のいちばん長い日』であり、天皇制廃止狂の)監督・岡本喜八が1967年にこれを映画化して“日本一の極悪人”阿南惟幾三船敏郎を主役に起用したことに大きく拠っていることに異論はなかろう。

 この歴史映画作品で、真に日本国の英雄と扱われるべきは、森赳(近衛第一師団長、陸軍中将)であるべきだが、その役は有名には程遠い島田正吾が演じた。三船敏郎に比肩することなど無理な役者。かくして、この映画のヒットもあって、大叛逆者かつ共産主義者で“天下一の国賊阿南惟幾は、歴史真実が転倒され、あろうことか「愛国者」に美化粉飾された。

 このように「善・悪の転倒」「正義・不正義の転倒」を図る歴史偽造のトンデモ映画は、2015年にも制作された。原作は再び、昭和天皇への叛乱に狂喜し、これを煽動して天皇制廃止革命に驀進するコミュニスト半藤一利の『日本のいちばん長い日』であった。この映画でも、阿南惟幾役所広司で主役。一方、森赳を演じたのは無名に近い高橋耕次郎。共産主義者で“昭和天皇に対する監禁/脅迫/暗殺(未遂)の大逆人”阿南惟幾は、この映画でも逆立ちされて「愛国の大英雄」になっていた。

 日本人は狂っている。日本人には愛国者は一人もいない。日本には、日本国民が居なくなった。『日本のいちばん長い日』のような、飛び抜けた共産革命史観の著書や映画に、日本人の誰しもが何の疑問も持たなくなった事実は、これを証明している。そればかりか、『日本のいちばん長い日』を批判・非難する一般雑誌の論稿も学会における学術的論文も一つもない。日本は、国家としては既に滅んでいる。死に体の国家が、屍体になる前にかろうじて息をしている。それが、現在の日本。

 現に、「共産党朝日新聞」と「民族系論客・団体/靖国神社宮司/産経新聞」とは手に手をとって、日本を亡国へと驀進している。例えば、後者の一つである靖国神社は、“極悪国賊阿南惟幾を祀る“祖国叛逆の大罪”を犯していることに、恥じることもないし自覚すらない。靖国神社は、昭和天皇殺しを生涯の使命とした「ソ連人」松平永芳宮司になって以来、赤旗が林立する赤い杜(もり)となった。だが、靖国神社昭和天皇への叛乱・暗殺(未遂)行為をなした“スターリン狂の共産主義”赤色軍人を称讃して「英霊」とする“狂気の「反日」神社”となった現状を憂慮・糾弾する日本人はいない。日本には、真正の日本国民は一人もいなくなった。

スターリン崇拝の陸軍の、皇帝ニコライ2世殺害を真似た昭和天皇暗殺未遂事件

 8月14日の宮城クーデタ事件について、今では、知る者もほとんどいない。関心がある者もどうやら皆無。とすれば、簡単な復習をしておく必要がありそうだ。拙著『小林よしのり「新天皇論」の禍毒』第六章第二節(注1)に、宮城クーデタ事件の概要とその“陰の主犯”平泉澄の「皇国史観=民族衣装で着飾った暴力革命レーニン主義」について分析をしておいた。是非とも参照して頂きたい。  

 平泉澄は、スターリンに狂った極悪の共産主義者で、それを隠蔽すべく、「マルクス史観」をもじって詐称四文字「皇国史観」だと吹聴した。「民族系」が得意な騙し語である。「皇国史観」なる言葉を用いた戦前の学者で、共産主義者で無かった者など一人もいない。例えば、1943年刊『皇国史観』の著者・紀平正美も、平泉澄と同じくヘーゲル好きのゴリゴリの共産主義者だった。

 そもそも膨大な平泉澄著作のどこを捲っても「国家」が不在。マルクス共産党宣言』に従って、「プロレタリアートには、国家・国境がない」を信仰していたからである。「国家」が存在しない平泉思想においては、当然に、日本国も皇国もない。だが、(レーニン発明の)共産主義者が得意とする転倒語法の、その達人だった平泉澄は、国家が死滅した日本を「皇国」と名付けた。平泉澄はまた、「プロレタリアート=共産革命家」を「楠正成」と名付けた。「スターリン」を「後醍醐天皇」に擬した。そして、“コミンテルン32年テーゼ”に基づく「天皇制廃止」を、「国体護持」という転倒語に変換した。

 ともあれ、8月14日の宮城ク―デタの経緯は、かいつまんで言えば、以下の通り。

 ポツダム宣言受諾の国家の最高意思決定を、昭和天皇を監禁脅迫して転覆させようとした1945年8月12日から15日にかけた丸三ヶ日間に及んだ陸軍の共産クーデタは、結果は鎮圧された。が、一歩間違えば成功しており、その場合、日本全土は米国との血腥い戦場となって、日本列島だけでも一般国民の死亡は二千万人ほどになっただろう。しかも、昭和天皇帝国陸軍共産主義将校たちに銃殺されただろうから、国家の再建はむろん、戦争指導そのものが破壊的に崩壊しており、日本国は文字通りに滅んでしまった可能性が高い。ソ連軍が日本列島のほとんどを占領する対米戦争継続の惨状は、東欧諸国の比ではなく、最も酷似する歴史の事例を求めると、カルタゴの滅亡に近いものではなかったか。

「バーンズ回答」が暴いた“真赤な噓”「国体護持(=国体(天皇制)破壊/昭和天皇銃殺)

 この陸軍赤色クーデタは、バーンズ国務長官の「回答」の直後に始まった。日本側の傍受は、8月12日午前0時45分頃であった。平泉澄の門下生で“狂信的なスターリン狂”竹下正彦・中佐陸軍省軍務課)は、直ぐにクーデタ計画を書き上げ、陸軍次官(若松只一)に具申している(注2、若松は同意せず、人事局長の額田坦・陸軍中将が竹下の隣に座り竹下クーデタ案を応援。なお、額田は過激な共産主義者ソ連工作員

 陸軍内の共産勢力が、いっせいに暴力クーデタに動いたのは、「バーンズ回答」が天皇制度容認=“国体護持”を明示したため、ソ連軍に日本列島を占領させるための“国民騙しの屁理屈”「国体護持」が完全に失効したからである。そして、8月13日午後には、荒尾/稲葉/井田/竹下/椎崎/畑中(表1参照)の過激コミュニスト六名は、同志の陸軍大臣阿南惟幾に、クーデタ計画「兵力使用計画」の決裁を迫った。

 このクーデタ計画は、8月9日に“GRU系のソ連工作員”で参謀次長・河辺虎四郎(陸軍中将)戒厳令でもって実行する旨を明らかにしており、8月9日のソ連軍の満州侵攻に呼応したものとする方が実態に即していよう。つまり、四文字魔語「国体護持」は、ソ連軍と同盟して米国と戦争を継続する“国民騙しの口実”だったのだが、「バーンズ回答」でその嘘がバレてしまい、ソ連軍の対日侵略の経過を暫くみてから決行する予定の「天皇/皇族/重臣/閣僚を、陸軍の監禁下に置く」計画を急ぎ速めたということだ。

 竹下/井田の作つまり平泉澄原案のクーデタ計画への阿南惟幾の躊躇いは、昭和天皇監禁をするこのクーデタ計画の内容そのものへの躊躇いではない。あくまでも、その時期がおそらく1945年10月頃であったのを一気に8月14日に速める事で成功を危ぶむ躊躇いだったろう。陸軍内部の了解と結束を構築するに、時間的不足という懸念一点に限っての躊躇いということ。

 近衛師団第二連隊には、連隊長を筆頭に、このクーデタ計画への賛同者は多く、「バーンズ回答」直後の8月12日午前9時には、早々と、その第一大隊が完全武装して皇居に侵入し布陣している。8月15日未明、下村海南・情報局総裁とNHK職員を拘束したのは、同じ近衛師団第二連隊の第三大隊だった。

 なお、近衛師団は、1943~4年に第二師団と第三師団を創設したが、あくまでも第一師団をもって近衛師団と同じだと考えてよい。近衛第一師団の編成は、第一/第二/第六/第七の四連隊。その師団司令部は、皇居に隣接した旧江戸城内にあり、今も「東京国立近代美術館工芸館」として使用されている。

森赳・師団長殺し主犯のトップは、阿南惟幾陸軍大臣

 話を戻す。近衛師団第二連隊(連隊長は、コミュニスト/ソ連工作員の芳賀豊次郎大佐)が、部下の第一大隊を早々と8月12日に出動させたように、師団長の命令を待たず下剋上的に勝手にクーデタ計画に参画した経緯について、歴史学的な研究は極めて不十分で、今後の調査が必要。

 さて、このクーデタには、近衛師団と東部軍の参画がなければ兵力的に成功しない。このため近衛師団長を殺害して「森赳・師団長名の偽出動命令書」が作成されたのである。東部軍司令官・田中静壱に対しては説得に失敗するや、そのまま放置している。どうも近衛師団の四ヶ連隊──特に第二連隊と第一連隊──だけで決行できると踏んだようだ。また、田中・東部軍司令官が鎮圧に出動するとはつゆ想定しなかったということだ。鎮圧は、8月15日午前8時頃に終了。昭和天皇の録音盤による玉音放送は正午きっかりに無事に放送された。

 この「近衛師団長殺害&偽師団長命令書」事件で、読者に喚起しておきたい第一は、高級な殺人事件には必ず、手を汚した実行犯手を汚さない主犯が居ること。第二は、組織殺人には想像以上に多くの人間が関与していること。第三は、目的と手段とを明確に確定すること。

 この第三を先に述べれば、近衛師団長命令書を書くのが目的だから、手段たる師団長殺害は絶対で、このため初めから“殺し屋”上原重太郎と窪田兼三を洗脳して、阿南大臣の命令と了解の下に、軍務課の畑中健二が引率したのである。

 手を汚していない主犯は、阿南惟幾陸軍大臣/竹下/井田/水谷/古賀/石原の六名。手を汚した実行犯は畑中/上原/窪田の三名。此の実行犯三名を、浴衣に着替えて就寝していた森師団長の部屋に手引きしたのが、森師団長の筆頭部下で近衛師団参謀長の水谷一生・大佐。水谷は、井田と同じく、昭和天皇殺しの急先鋒のひとり。そして、水谷参謀長の部下の参謀たちも、森師団長殺害計画に事前から積極的に参画していた。何故なら、偽師団長命令書を書いたのは、水谷とその部下たちの近衛師団の赤色将校たち。陸軍省の赤色将校たちではない。

 殺害は、8月15日午前1時、師団長室に乱入した三名は、森赳・師団長にクーデタに協力するか否かを問い、拒絶されるや、一気に畑中がピストルで上原が軍刀で殺害したと考えられる。そして、一緒に泊まっていた森赳の義弟・白石通教(中佐、西部軍参謀)を、窪田が軍刀で斬殺したのだろう。この殺害までの森師団長と畑中の(明らかに不自然にすぎ創り話の)会話が、下村海南『終戦秘史』に記録されている(注3)。下村の性格からして決して創作しない。ということは、下村につくり話を吹き込んだクーデタ関係者が居るということ。戦後にクーデタの正当性を残すべく、下村を利用したのである。

 なお、森赳・師団長の死体を、畑中/上原/窪田の三名は、「ゴミ焼却炉に捨てた」という記事が『週刊新潮』に出た(注4)。週刊誌だから基本的には信用しない事にしているが、どうもこれは例外的に信用してよさそうだ。偽師団長命令書を出した以上、この師団長命令が本物かどうかを各連隊は確認すべく師団長を訪ねる筈だから、「不在」を細工するしかない。最も見つからない場所として「ゴミ焼却炉」はベストと言える。

半藤一利の著は、重要歴史事実をバッサリ削除した偽情報操作が目的の本

 さて、「8・14宮城クーデタ(共産革命)事件」に明らかに関与した者について、表1にリストしておく。ほとんどが、平泉澄の門下生。ということは、この事件が、昭和天皇暗殺を悲願としたスターリン系革命家・平泉澄のクーデタだったことを如実に証明する。

表1;陸軍刑法「叛乱罪」で死刑を執行しておくべきだった「共産革命の宮城クーデタ」  

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 この表1の事実を知った上で、半藤一利の『日本のいちばん長い日』を読んでみると、異様な感じがする。まず、平泉澄の門下生たちが集結してのクーデタだったことを完全に消し去っている。つまり、半藤一利は、この最重要事実を意図的に隠蔽したのである。

 次に、阿南惟幾が、あたかもこのクーデタとは一線を画して加わっていないかのように描かれている。作為も甚だしい。そして、阿南が自分の部下たちの不祥事の責任を一身に背負って、割腹自決した立派な上司に描いている。阿南惟幾の主導・主謀なしに、万が一にもこのようなクーデタが起きるわけがないことは、余りに自明ではないか。

 さらに、このクーデタとソ連ソ連軍の対日侵攻との関係が一行も一文字もない。

 それ以上に怪訝なことは、このクーデタはコミュニスト達の共産革命だが、この事実への言及がない。いや、露骨にコミュニストを庇う詭弁に終始している。例えば、コミュニストであった近衛師団第二連隊長の芳賀豊次郎・大佐が、このクーデタの一員だったのは事実なのに、わざわざ「人の言葉を信じやすい/騙されやすい性質を持っていた」として、免責してあげるに躍起(注5)。変だな。芳賀が「人を信じやすい/騙されやすい性質だった」証拠も根拠も、半藤は示していない。こんな嘘っぽい屁理屈を臆面もなく考え付くのは、半藤一利コミュニスト隠しに必死だからだろう。

 この半藤流の作為は、“嘘つきコミュニスト”井田正孝の戦後の真赤な作り話を、そのまま検証せずに、実態としては半藤の創作になるデタラメ引用をしている。例えば、半藤は「近衛師団長室では、井田中佐が話す機会をつかんで、森中将と静かな議論を戦わしていた。彼らが考える国体護持とは何であるかを、井田中佐は一語一語に畢生の情熱をこめて師団長に訴えた」と書いている(注6)。笑うに笑えない。

 まず、すぐに激昂するタイプの井田が静かに議論などするわけない。次に、偽師団長命令書づくりと各連隊への下令の時間がひっ迫しており、このような議論をする時間など全くない。そもそも井田が師団長室に入った事実を裏付ける証拠がない。半藤の『日本のいちばん長い日』は、何から何まで嘘だらけで、いったい、これが「宮城クーデタ事件」のノンフィックションかと唖然とする。正しく言えばフィックション小説であろう。

阿南惟幾の叛乱は、燎原の火の勢いで対日侵略するソ連軍に呼応した共産革命

 阿南・陸軍大臣が8月12日に「昭和天皇を監禁し脅迫下に置く”宮城クーデタ」の決行を決意した時、ソ連軍は破竹の勢いで満洲になだれ込んでいた。阿南ら「宮城クーデタ」派の赤色軍人の頭の中は、この逆。こうだ。

 ソ連軍が満洲に燎原の火のごとく大規模兵力で侵略してきたので、これに興奮し感涙し、ついに大東亜戦争の目的である東アジア全域の共産化が実現する事に喜びの余り小躍りしていたのである。満洲を制覇するソ連軍に連動して、このソ連軍を樺太経由で北海道に招き入れて、日本国もついに共産革命を決行し、共産国家・日本を建設する時が来たという認識である。

 この認識において、日本共産化の最大の障害物である天皇を利用するだけ利用して、不必要になればその後は銃殺する、天皇制度の最終段階に突入する、そのスタートとして「宮城クーデタ」を位置付けた。ちなみに、陸軍参謀本部に入ってくる満洲の戦場詳報は、「突破された」「突破された」ばかりの悲報しかない。8月12日の時点ですら、東は牡丹江が陥落寸前、北は全滅、西は白城子がほぼ落ちて新京の陥落も「8月いっぱい」が確定した。満洲ソ連が三ヶ月ほどの短時日に制覇することは、そのまま毛沢東中国共産党支那本土になだれ込めることを意味し、支那全土の共産化も早ければ「一年以内」が現実となりつつあった。

 しかも、陸軍省/参謀本部は、1937年7月の対支那戦争を“ソ連NKGB工作員近衛文麿が開始して以来、要所要所には共産主義者ばかりを配置する、御まめな人事を積み重ねてきた。例えば、満洲防衛の関東軍の総参謀部は総参謀長も総参謀副長も作戦課長も皆、コミュニストだけを配置してきた。そして、1943年夏以来、満洲をほぼ無血でソ連様に差し上げるべく、その兵力数十万人をことごとく国境警備隊のレベルに落し、戦闘能力が基準を満たす正規師団をゼロにした。

 天皇と皇室を守る近衛師団を、天皇を襲い皇居を占領する共産軍にすべく、参謀長や参謀のポストすべてに共産主義者を任命したし、最重要な第1/第2連隊の連隊長のポストにも共産主義者を配置した。アジア共産化/日本共産化を目的とした大東亜戦争が、昭和天皇ポツダム宣言受諾のご聖断で終了して、この「アジア共産化/日本共産化の目的」が未完となるのを何としてでも阻止したいと、陸軍省近衛師団共産主義軍人たちが決行したのが「宮城クーデタ」。

 たまたま梅津美治郎参謀総長が、共産主義シンパであるのに、この仲間に入るのを拒絶したため、参謀本部が加担できなくなり、陸軍一丸となった叛乱が泡と消えただけである。だが、東部軍司令官が仮に田中静壱ではなく、松村知勝のような教条的な共産主義者だったら、「宮城クーデタ」は成功していた。国家の永続と生存における天国と地獄の岐路は、紙一重である。

森赳・中将/田中静壱・大将の銅像は、皇居前広場二重橋が見える所に

 この意味で、(田中静壱の命日は8月24日だが)8月15日に、田中静壱将軍に感謝を捧げるべく、我が家の小さな仏壇で失礼だが「田中静壱之霊位」と白木に墨で書いて納め、線香を供えるのを毎年の行事にしている。また、「宮城クーデタ」への協力をにべもなく拒絶するや「問答無用」と銃弾を撃ち込まれ肩を刀で斬られ落命した森赳将軍の無念は、いかばかりであったろう。とはいえ、昭和天皇を護るに命を捨ててこそ武人の誉れだから、本懐だったかもしれない。  

 いずれにせよ、昭和天皇の偉大なご聖断を国民に告げる玉音放送の無事な放送は、森赳/田中静壱の両将軍の自己犠牲あってのこと。両名の銅像を、二重橋を眺望できる皇居前広場に建立してあげたいと常々考えてきた。が、現実は厳しい。(7月29日記) 

                                    

1、中川八洋小林よしのり「新天皇論」の禍毒』、オークラ出版、220~42頁。

2、『終戦工作の記録〈下〉』、講談社文庫、444頁。

3、下村海南『終戦秘史 』、講談社学術文庫

4、『週刊新潮』、1999年9月9日号。

5、半藤一利決定版 日本のいちばん長い日』、文藝春秋、147頁。

6、同上、181頁。

 

【追記】 別宮暖朗『終戦クーデタ…近衛師団長殺害事件の謎』は、現代史研究の白眉

 本稿で、別宮暖朗氏の研究書『終戦クーデタ…近衛師団長殺害事件の謎(並木書房)に言及していない。理由は、二つある。第一は、私の「8.14宮城クーデタ」の研究は、別宮暖朗氏の著作が刊行された2012年より二年ほど前の2010年までに行っていたもので、両者を混ぜたくなかったからだ。

 第二は、「なぜ混ぜたくなかったのか」だが、別宮氏の方が私のよりはるかに研究が一ランク優れており、私の2010年までの研究を機会があれば全面的に改善し一冊の本にして出版したく、この改善の痕跡を正確に残すには、2016年時点で若干の研究改善はしない方がいいと思ったからだ。

 戦後嘘ばかりで脚色された「8.14宮城クーデタ」の歴史を、別宮氏の方が私のより一ランク上で真相解剖している例をあげる。下村海南『終戦秘史』では創作の嘘話がほとんどだが、良心の塊である下村は決して創作しない以上、「クーデタの直接の関係者」が下村を洗脳したはず。この「クーデタの直接の関係者」が誰とは私は確定できなかったが、別宮氏は東部軍参謀の不破博と板垣徹だと、この解を見つけている。不破博と板垣徹ならば、下村海南が信用するのは自然である。下村海南は自裁した田中静壱をこの上もなく尊敬しており、不破博と板垣徹はその直接の部下のナンバー2とナンバー3。この歴史事実は、田中静壱のクーデタ鎮圧が戦慄するほどに紙一重の成功だった事を示している。田中静壱の部下ナンバー1の参謀長・高嶋辰彦だけが鎮圧派だが、その下の参謀・不破博と板垣徹は密かに“狂気の共産革命家”阿南惟幾側についていたからだ。

 もう一例挙げる。別宮氏は、森赳・師団長殺害を直接指揮したのは阿南惟幾だと断定し、具体的根拠をあげている。私も、全く同じ断定を全体の事件経緯を照査して下したが、具体的根拠はない。

 ともあれ、良書と悪書を峻別せよと説くショーペンハウアーではないが(『読書について』)、「8.14宮城クーデタ」の歴史について、良書は別宮暖朗の『終戦クーデタ』、悪書は半藤一利の『日本のいちばん長い日』。本ブログの読者には、この端的に明瞭な悪書・良書を読み比べることをお勧めしたい。

 尚、別宮暖朗氏についてだが、東大卒業と同時に現代史の学界に進んでいれば、戦史・軍事史分野での日本最高の現代史学者になっただろうことは疑いを容れず、この分野の才能には天性の凄さがある。彼が銀行・証券マンの道に進んだことは、日本の現代史学界が逸材を埋もれさせてしまったということだ。

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