中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

戦後日本人こそが隠蔽操作し歴史の闇に閉ざした“ソ連満洲侵略史”の真実。自明すぎるGHQの無関係──“歴史の偽造家”西尾幹二の妄言狂史24

筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 

 

 大東亜戦争の真実は、大東亜戦争期の出版物のどこを捜しても、一つの欠片すら見当たらない。理由は二つある。

 第一は、大東亜戦争中の出版物は、戦争遂行の戦意高揚以外の、たとえば戦争の核心を抉る冷静で客観的な著作などは、すべて検閲されて出版されることが決してなかったからである。

 第二に、そもそも歴史とは、過ぎ去って後に真実が顔を出すのが常で、このようなケースが過半である。いわんや国挙げての戦争の場合、冷静沈着な戦争批判や戦争解剖など困難というより全く不可能であるのは自明ではないのか。

 すなわち、GHQの戦時中の出版物に対する市販禁止という(日本国に何一つ害も損も与えなかった)目的定かでない占領行政に、①大東亜戦争の真実を隠蔽しようとの意図など全くなかったことは確度100%で確かである。②また、1945年4月以降の大東亜戦争の末期とは、1937年7月から日本国民の目を塞ぎ頭を麻痺させて正体不明にしてきた大東亜戦争の真相が初めてぬっと顔を出した時だったが──例えば、1945年8月9日に始まったソ連軍の満州侵略など──、これらは、仮に書ける政府部内の人間がいたとしても時間的には無理で出版されること自体が全く不可能。すなわち、「GHQは、大東亜戦争の真実を隠蔽するために市販禁止(=市販された指定図書は没収)の対象にした」との謂いは、暴力団の言いがかりすら「温和」に見える、悪質極める誹謗中傷の何物でもない。

 だが、老耄のヒトラー型狂人”西尾幹二は、精神分裂病が最終段階に進んでおり、狂気の妄想を無限に膨らませて嘘歴史を捏造することに没我する。しかも、生まれながらにして歴史学がトンチンカンの“スーパー歴史音痴”の無知無教養だから、②の事実が認識すらできない。

 だから西尾幹二だけは、“真赤な捏造”「GHQは、ゼロ冊=幽霊を市販禁止にしたから、戦後の日本人は、大東亜戦争の真実を知ることができなくなった」との詭弁妄言を撒き散らせることができる。“老醜が垂れ流す公害図書”の“反・歴史”GHQ焚書図書開封』シリーズは、この種の詭弁妄言が洪水となって溢れている。だがGHQは、この世に存在しない虚空の幽霊本を市販禁止していない。

 要は、大東亜戦争の真相なり真実なりは、戦後に、良心ある健全にして正しき日本人だけが知力の限りを尽くして探索した場合のみ手にすることができる。これとは対極的に、戦前戦中の大衆煽動洗脳用のプロパガンダ本を漁れば大東亜戦争の真相が明らかになると思い違いする日本人は狂気で、蜃気楼に架空の本を妄想している。とすれば、後者の好例である“ヒトラー型狂人”西尾幹二に共鳴しシンクロする者は、正常と知が欠如した劣等野蛮な非・日本人ということか。

序 関東軍が犯した二つの“祖国反逆の大犯罪”

 1945年8月9日未明に始まる“ソ連満洲侵略”は、「第2次日露戦争」というべきものだが、それは東京湾上の戦艦ミズーリ―号の甲板で日本が降伏した9月2日まで続いた。この期間は25日だから、「25日間の第2次日露戦争と命名すべきである。対英米蘭戦争を「太平洋戦争」というが、満洲樺太は太平洋ではない。

 「25日間の第2次日露戦争」に関して、戦後日本は、不可解以上の奇奇怪怪な行動をとった。2015年から振り返れば、自国民の最悲惨な歴史に対する戦後日本は、七十年間に亘って「25日間の第2次日露戦争」の真相隠しに終始した。日本人のこの態度は、“異常”の一言に尽きる。

 “異常”とは、現代史学会もそれ以外の歴史学者も戦史家も、事実上、「25日間の第2次日露戦争」をさも腫れ物に触るかのように、研究対象・執筆対象から完全に排斥して、存在しないことにした歴史空白づくりの犯罪行為に加担しているからである。戦後日本人とは、ある特定歴史を自己検閲して完全抹殺する、歴史改竄をなす最低民族である。この歴史改竄/歴史隠蔽において、荒唐無稽な間違いだらけを垂れ流す『WILL』『正論』は、“反日”の『朝日新聞』と甲乙つけがたい。

 「25日間の第2次日露戦争」に関する歴史の空白化=歴史改竄は、全国民レベルで実行されてきたが、このようなことは偶然ならば決して起こり得ない。なぜなら、「25日間の第2次日露戦争」の結果、シベリアで日本人男児「60万人」が殺害されたのである。ヒロシマナガサキの原爆死者合計「10万人」の六倍に当たる「60万人」の根拠については別稿で詳細に論じるが、シベリアに拉致連行された日本人男性は最終の確定数字で「107万人」。帰還したものが「47万人」。差し引けば「107―47=60万人」ではないか。そして、これ以上に確かな根拠の数字は存在しない。

 また、満洲だけで一般邦人は、ソ連軍侵攻時とその占領下で最低でも「30万人」が殺害されている。うち「20万人以上」は婦女子である。この「30万人」は、侵略ロシア軍による“男狩り”や7月10日の「根こそぎ動員」でシベリアに連行された「一般邦人男性20万人」を除外した数字。シベリアに連行されたこれら「一般男子邦人20万人」のほぼ全員が上記のシベリアで殺戮された「60万人」に含まれるから、重複は補正されている。

 すなわち、「60+30=90万人」もの自国民がロシア一国に殺戮された歴史を、専門の大学教授ら研究者も当事者だった旧陸軍エリート将官・将校も、戦後、全員が口をチャックのように閉じ続けて七十年が経った。特に、生還した旧陸軍エリート将官・将校の事実改竄/事実隠蔽は尋常ではなく、大量殺人の犯罪者ヒトラーが嘘の抗弁をする姿に譬えられる。現に、「25日間の第2次日露戦争」時、関東軍総参謀部をスターリンの命令のままに好き放題に牛耳った三人のエリート軍人──秦彦三郎/松村知勝/瀬島龍三──が戦後出版した回想記(注1)は、旧陸軍エリート将官・将校が意図的に流した真赤な嘘の事実改竄/事実隠蔽の端的な証左である。

 公刊戦史『関東軍2』も、その本質は、「25日間の第2次日露戦争」を隠蔽する、陰湿な偽情報垂れ流しの犯罪書籍といえる。タイトルが率直なソ連満洲侵略』ではなく、意味不明タイトル『関東軍2』と、姑息に変造している事実でも、このことは垣間見えている。この変造タイトルは、“ソ連満洲侵略”に関して、さも公刊戦史が存在しないかに偽装するのが目的なのは言うまでもなかろう。

 なお、公刊戦史『関東軍1』も同じ悪質な国民騙しを企図したタイトル。このタイトルは元来、『満ソ国境紛争』もしくはノモンハン戦争ほか』とすべきであった。そうしなければ、(よほどの専門家を除き)戦史に関心がある一般人レベルでは、『関東軍1』がノモンハン戦争の戦史だとは気付けない。

 話を戻す。秦彦三郎/松村知勝/瀬島龍三らだけでなく、それ以外の関東軍参謀部や参謀本部所属のエリート軍人たちの多くが、「大東亜戦争の目的を隠蔽してやるぞ」「日本の歴史から抹殺してみせるぞ」の、強烈な信条や強固な信念での歴史改竄の工作が大々的に行われなかったならば、シベリア強制連行・大量殺害の数字や満洲一般邦人の殺害・死亡数が真赤な嘘数字のまま、戦後が七十年間も経つなど、そんな事態は決して招起していない。

 蛇足。上記の三名に草地貞吾を含めなかった。草地貞吾の戦後回想記(注2)の内容から判断すれば、ソ連工作員とすべき“限りなく黒”なのだが、結論にまだ至っていないからだ。

 話を戻す。では何故に、「25日間の第2次日露戦争」は、日本人の歴史の空白として、その実態やすべての事実は抹殺的に完全隠蔽されるに至ったのか。答えは簡単明瞭。現在に至るも日本国の実際の支配者である共産主義者とその背後のロシアKGB工作によって、関東軍スターリンの命令通りに実行した二つの“祖国反逆の大犯罪”の徹底隠蔽が実行されているからである。二つの“祖国反逆の大犯罪”とは何か。

  1.  関東軍総参謀部は、満洲防衛をする意思が全く皆無だった上に、満洲に雪崩を打って侵攻してくるソ連軍に通謀し全面協力していた
  2. 関東軍総参謀部は、在満州の一般邦人を見殺し的に事前疎開(避難)させなかったが、この理由は、広大な満洲広くに散開している関東軍の現地戦闘部隊に、「彼らの疎開がまだなら、ソ連軍の侵攻は当分ないな」と油断させる囮に活用したためだった。すなわち、当初から関東軍総参謀部は、一般邦人(日本人)が婦女子を含めソ連軍に大量殺戮されることをよしとしていた。換言すれば、関東軍総参謀部とは、日本人殺戮ホロコーストを平然と計画し残虐に実行した“ロシアと共同正犯の犯罪組織”であった。

第一節 スターリン満洲を献上すべく、満洲国防衛の対ソ戦力の空洞化  

 表向きは「満ソ国境争奪戦争」に偽装した“対ソ大敗北演劇”ノモンハン戦争から丸四年の一九四三年夏、太平洋戦争の帰趨が定まり、米国に対する日本の大敗北は確実となった。この瞬間を待っていたかのように、陸軍は異常な行動を開始した。満洲の対ソ防衛用の軍事力を南方へと滅多矢鱈に移動して満洲の防備をがら空きにする、白昼公然の“満洲ソ連に献上する行動”である。  

 この時の参謀本部作戦課長と関東軍総参謀長は、名うてのソ連工作員&過激な共産主義者の、服部卓四郎と笠原幸雄であった。笠原幸雄とは、スターリンの命令通りに“日本の大敗北ノモンハン戦争”を演じた第23師団長・小松原道太郎に優るとも劣らぬ、札付きのソ連工作員(注3)

 そして、関東軍総参謀副長(1941年7月以降は2人制)は、これまた過激も度が過ぎる共産主義者の松村知勝と池田純久である。東京帝国大学経済学部に三年間フルに在籍しマルクス経済学を習得するばかりか『資本論』の狂信者となった池田は、スターリン計画経済ソ連を崇拝し、1934年『陸軍パンフレット』(赤の巣窟だった陸軍省新聞班が出版、『国防の本義と其強化の提唱』)を執筆した。『陸軍パンフレット』で、スターリン計画経済体制のことを“高度国防国家”に置換する騙し語を発明するなど、池田純久とは、共産革命家として一流の人物であった。

 この問題を追及する前に、1943年前後の、当該問題の担当ポストにいたソ連工作員共産主義者をリストしておく。無論、これらは、「帝国陸軍だけでソ連工作員が1200名いた」とされるから、氷山の一角にすぎない。           

表1;ソ連工作員共産主義ゴチックは確定、明朝は疑い濃厚だが未確定)

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226124452p:plain

 

 草地貞吾の回想記に、満洲ソ連に貢納することを得得と語る異様な記述がある。こう書いてある。     

関東軍参謀長の笠原幸雄中将は、常に私にこういわれた。〈東京も随分と困っている。もし、東京から兵力転用の御命令があったなら、何はおいてもさっさと出してあげなければならないぞ〉、と」「これに対して私も、〈はい、命令を待つばかりでなく、こちらから進んで献上いたしますよ〉と、笑って答えた(注2)。  

 この会話は、関東軍が、職務である満洲防衛をする気持ちなどさらさらないことを自ら白状している。もし、満洲を少しでも守ろうとするならば、対ソ戦の戦力が必要の最低限をすでに割っている情況で、さらにそれを「大幅に削れ」との東京の参謀本部からの無理難題の要請には、断固として反対し抵抗したはず。だが、この兵力召し上げに対して「関東軍は反対した/抵抗した」の記録はいっさいない。実際に、全く反対しなかった。そればかりか、転出していく部隊に兵器・弾薬を追加的に与え、関東軍の戦力・軍備がますます弱体化するように取り計らった。

 この事実は、草地貞吾が関東軍に赴任した1943年夏の時点、参謀本部関東軍総参謀部は、満洲全土を“スターリンソ連に献上する=貢ぐ”ことを、すでに決定し合意していたことを意味する。1943年夏、独ソ戦線はどうなっていたか。すでに1943年2月2日、ドイツの対ソ戦を占う天王山スターリングラードで、ドイツ軍は敗北し降伏した。このとき33万人からなるドイツ第六軍/ドイツ第四装甲軍/ルーマニア第三・四軍/イタリア第八軍のほとんどが壊滅して、降伏時に生存していた兵員数は10万人を下回った。

 ソ連のナチ・ドイツ軍への反攻は素早く、1943年7月には戦略的要衝クルスクを奪還し、翌8月にはクルスクの北と南にあるオリョールとハリコフも奪還した。これで、ドイツの対ソ戦の帰趨は定まり、確実なる敗北へと反転した。この西における新事態は、東においてスターリン満洲に侵攻・侵略する軍事情況が確実に到来したことを意味する。

 だが、日本国の国防の任を負う陸軍は、この危機到来の事態発生を「満洲防衛が危機に面するようになった。すわっ、大変だ!」とは考えなかった。それどころか、全く逆方向に走り出した。すなわち、「ソ連がついに満洲侵攻をしてくれる日が近づいた。これを熱烈歓迎すべく、満洲日本陸軍対ソ兵力を“がら空き”にしてソ連軍が無傷無血で満洲を占領できるようにしてあげよう」の、狂気の逆立ち兵力配備を公然と実行し始めたからである。

関東軍が率先垂範して“ごぼう抜き”し空洞化した、満洲の対ソ防衛力  

 関東軍が、自分の部隊兵力を他の戦線に「どうぞ、どうぞ、差しあげます」と、ごぼう抜きに積極的に協力した逆立ち異常行動に驀進するスタートは、「ソ連軍の満洲侵攻は100%の確度」が常識になった1943年8月から僅か二ヶ月後の10月であった。

 この10月、まず第二方面軍司令部第二軍司令部を豪州北方作戦用に満洲からおっぽり出した。続いて、満洲防衛の要であった第一機甲軍(第一戦車師団と第二戦車師団司令部もおっぽり出した。

 日本には戦車師団は三ヶ師団しかなかったのに、その戦力の半分以上を占める精鋭部隊を満洲防衛から追放したのである。第一戦車師団フィリッピン(1944年7月)、第二戦車師団は本土へ(1945年3月)。むろん、それより以前の1944年2月から、連隊単位でこれら戦車部隊は、満洲からごぼう抜きされていた。1945年8月、ソ連軍が満洲に怒涛のごとくに侵略した時、日本の戦車は、教育訓練用のが新京と奉天周辺に僅か100輌あるのみ。1943年8月時点の500輌の五分の一。

 さて、本題に戻る。満洲防衛からお払い箱になった、満洲の在来師団や主要旅団を表2に掲げる。この表2では特に、「関東軍特種演習(関特演)」に参加した兵団が抹殺されるかの如く、ことごとく満洲から放逐された事実に留意して頂きたい。「ソ連軍と戦うのが常識」と自覚する伝統ある兵団の消滅とは、「ソ連軍と戦うのが常識」の消滅に直結する。関特演が1941年8月、ソ連への侵攻をせずに中止したことが、“日本陸軍の伝統&常識”対ロシア戦の意識を陸軍内から一掃した。日本国の国防は、1941年8月、関特演の中止によって死亡した

 そればかりか、在来師団の満洲からの追放は、関特演に参加したとの事由において憎悪からの「処刑執行」的な色彩がある。ソ連様/スターリン様に牙を剝いた敵性師団は皆殺し的な消滅の報復をしておこう”が、満洲からのゴボウ抜きの本当の狙いに秘められていたと言えるだろう。

表2;満洲ソ連に貢ぐべく、満洲防衛がら空き化の“兵力ごぼう抜き”

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226124757p:plain

 この結果、満洲には対ロ戦のできる精強な在来師団は完全ゼロとなった。満洲全体の対ロ戦力は、事実上、空洞化して、実態的には限りなく無力化されたのである。帝国陸軍が、明治維新に創設されて以来、不動の第一正面としてきたロシア南下の阻止のための満洲防衛/朝鮮半島防衛は、ここに放棄された。この決定決行の開始は、1943年10月。このとき帝国陸軍は、“日本国の陸軍”から、“ソヴィエト・ロシアスターリン陛下)帝国陸軍に大変身・大変貌したといえる。

 この対ソ戦力の“ほぼゼロ”化を決行した、共産主義者が完全に牛耳る帝国陸軍参謀本部は、自らの“祖国叛逆の大変身・大転換”を、昭和天皇/陸軍全体に残る多数派の良識的将官・将校/政府/国民に知られないように、さも満州を防衛し続けているかの偽装(カムフラージュ)策を講じた。

 それが、戦闘能力が著しく劣る三流師団~六流師団の急ごしらえであった。一般的に表現すれば、即製(インスタント)師団や風船(案山子)師団を粗製乱造した。問題の再核心は、これだけではない。

 これらが満洲関東軍の半分を占めるとか三分の一になったのではなく、在来師団をひとつ残らず、これら即製師団/風船師団に総入れ替えしたこと、これが核心。満洲を無傷でソ連に貢ぐ/献上するが陸軍参謀本部の絶対方針でなかったならば決して起こり得ない、前代未聞の異常を極めた“祖国叛逆に基づく軍隊の編成・配備”である。このようなケースは、世界の戦争史にも稀有。このように、帝国陸軍関東軍の中枢は、人類史上まれにみる最悪最凶の極左エリート軍人に蚕食されていた。

兵力が激減すれば陣地構築で補強するが、これもしない関東軍満洲放棄方針

 過剰に軍事力が削減されて彼我の戦力比が極端になった場合の戦争は、最終的には必ず敗北する。だからと言って、一ケ月間とか三ヶ月間とかの緒戦期だけに限定すれば、戦いの戦法や準備が万端であれば、敗北を回避して不敗を完遂できる。この好例が、第2次世界大戦期のケースであれば、マンネルへイム元帥が率いる寡兵のフィンランド軍が証明している。

 1939年11月30日の未明、スターリンソ連軍は、50万人の兵員に戦車3000両で、フィンランドの国境を越えた。迎えるフィンランドには、戦車40両/動員後兵員でも13万人弱の小さな軍隊しかなかった。人口350万人の小国の宿命である。だが、“北欧の天才軍人”マンネルへイム元帥は、この危機があることを予見して二十年も前からソ連との国境に対戦車の電撃的大規模侵攻を阻むマンネルへイム・ラインを構築していた。

 マンネルへイム・ラインは、マジノ線ジークフリード線などと比較すれば、とても貧弱で堅固とは万が一にも言えない。天然の石を並べたり、浅い濠を掘ったもので、予算が事実上なかったことを歴然と示すもの。それでもフィンランド湾とラドガ湖の間のカレリア地峡に四層の対戦車障害のラインを完成させていた。これが、緒戦の三ケ月間、フィンランドソ連軍のヘルシンキ制覇を阻止し得て最高の結果をもたらした。四ヶ月目には突破される寸前となり、領土の八分の一をソ連に割譲して講和に持ち込んだ(注5)。

 このフィンランドと比較すれば、我が兵力は明らかに三分の一以下となり、彼の兵力が五倍以上となったソ満国境において、満洲防衛の要は、マンネルヘイム・ラインやマジノ線のような、長大かつ縦深ある対戦車濠・障害物の「線」が堅固に構築されていなくてはならない。例えば、東満洲の国境や朝鮮北部の国境地帯・沿岸地帯は、特にそうだ。具体的には「佳木斯(チャムス)-琿春」間や「虎頭―虎林―斐徳―東安―廟嶺―綏芬河―東寧―東興鎮―琿春」間などは、マンネルへイム・ラインやマジノ線などに匹敵するものを、二重・三重ではなく、五層にも六層にも、世界史に残るほどの縦深が十分な長大な対戦車濠・対戦車障害物を建設して、関東軍の在来兵団のごぼう抜き化の無防備情況を補完する他なかったはずだ。

 次に、北満洲のような広漠とした地域においては、万が一にも前方防御/前進防御をしてはならない。常識だろう。ポーランド軍は、1939年9月1日のドイツの電撃侵攻に対して、前方防御をなしたために、いとも簡単に突破された。このポーランド“無惨な壊滅敗北の戦史”に学べば、明らかなこと。

 北満州の防衛はあくまでもハルピンを最前線とすべきで、「チチハルから満州里」「チチハルから黒河/愛琿」間の地帯には軍の主力部隊を展開してはならない。展開できる師団クラスの戦力はすべてハルピンの線まで後退されていなくてはならない。代わりに、「満州里-チチハル」「愛琿/黒河-チチハル」間などは、対戦車地雷を敷き詰め要所要所に対戦車濠や対戦車障害物を構築しておくことである。だが、そのようなソ連軍の電撃侵攻を遅らせる防衛措置を関東軍は一切しなかった。“逆さスローガン”「静謐」は、自国軍隊の思考を麻痺させ、満洲の対ソ防衛をさせないための脱法ドラッグであり、ソ連工作員たちが関東軍の前線部隊にばら撒いた阿片であった。

 ハルピンの線を対ソ戦の最前線にすることは、ハルピン・牡丹江以北の北満洲開拓団全員の奉天以南への事前避難は絶対だったが、関東軍総参謀部は、この逆に、一般邦人の避難や疎開を禁止した。一般邦人の避難が開始されないうちは、現地部隊が「まだソ連軍は当分、侵攻してこない」と勘違いするが、これを狙ったのである。

 さらに、ソ連軍の侵攻と同時に発生する邦人の避難は、現地部隊はその保護を優先するから対ソ戦開始が遅くなり、より確実には敗北に至るが、関東軍の幹部はこれを狙ったのである。 さらに、通化に関東軍の有事用地下司令部が建設されていない事実。通化を囲む「奉天-敦化-清津-咸興」内の要塞化プランすら無い異常な無防備状態も、関東軍満洲ソ連に献上する意図と計画を如実に明らかにする。

 興安嶺山脈のある西満洲側の、線でいえば張家口とハルピンを結ぶ線での対ソ防衛は、超長大で超広大だから、防衛方法は極めて困難。だが、対・蒋介石の国民党政府軍との「支那本土全体を制圧する」との完全不可能な絵空事戦争をしているのに比すれば何でもないこと。1945年5月7日のナチ・ドイツの連合国への降伏(=日独伊三国同盟の自然消滅)を好機に直ちに、①蒋介石に一方的和平を通告して南京に遷都してもらい、②支那派遣軍総司令部を南京から北京に移し、③第六方面軍すべてをこの西満洲防衛に振り向ける。④第六方面軍の移動と同時に支那全土の一般邦人を(港のある)山海関/天津/青島に全員強制移住させ、⑤第一方面軍の主任務を北京の秩序維持と(一般邦人四十万人以上が移住する)これらの三港の都市の防衛とする。その残余は、満洲に振り向ける。

 なお、対支那戦争の終結と対ソ満洲防衛に転用・専念させるに当たり、第六方面軍の移動中に重大な処理を忘れてはならない。第11軍の軍司令官・笠原幸雄中将とその麾下に編入されていた第13師団第65連隊長の服部卓四郎・大佐をソ連軍と通謀するのだから決して満洲に入れてはならず)銃殺処分しておくことである。

1944年6月からの即製師団・旅団&1945年7月の風船師団・旅団の粗製乱造

 主要な即製師団・旅団を表3に掲げる。表3は、関東軍は、ナチ・ドイツ軍を粉砕して精強さが数倍になったソ連軍とは大人と子供の差であるのを一目瞭然に示してくれる。すなわち、戦うと同時に粉砕される超弱体兵団に意図的に仕上げたことが一目瞭然。

表3;1944年6月以降に粗製乱造された“三流以下の兵団” ──関東軍即製師団・旅団

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226125101p:plain

(備考) 表3は、未完成。

 

 1945年7月、関東軍は、それから一ヶ月も経たず大規模ソ連軍の侵略が開始されるから全く無意味、いや逆効果こそ甚だしい「20万人(25万人?)根こそぎ動員」をし、急造の案山子(風船)師団・旅団を創設する“泥縄ごっこ”に時間を浪費した。なぜ関東軍は、馬鹿げた「20万人根こそぎ動員」をしたのか。

 第一は、兵員数や師団数が少なくても、訓練を一年以上受けた兵団だけで戦う方がより有効でより確実だが、つまり一年以上が経った「現在」戦力で対ソ戦をした方が敵に十全の損害を与えうるが、これを妨害するためである。第二は、この対ソ戦の大敗北後に「一般男子邦人20万人」をシベリアに無料奴隷として送り込むためである。なお、「根こそぎ」と言うのは、在満日本人成人男子35万人のうち鉄道・通信・産業の技術者等を除く「20万人」を召集したからである。関東軍とは、ソ連軍と内通していただけではなく、ソ連軍の下部組織の“前線軍”であった。「満洲に侵略してくるソヴィエト・ロシア軍本隊より先に、満洲に潜入していた先遣部隊だった」と考えた方が実態と合致する。

 なお、7月15日には、米英ソのポツダム会談で、スターリンは2月のヤルタでの密約“対日戦争参戦”を再確認した。チャーチル抜きの“2月8日の米ソ会談”で、スターリンは米国大統領ルーズヴェルトに、「ドイツ降伏後二ヶ月から三ヶ月以内の参戦(=ドイツは5月7日に降伏したので8月5日までに対日開戦)」を約束した。ところが、関東軍では、秦彦三郎・総参謀長らのトップが率先して、「ソ連の対日開戦/満洲侵攻は、1946年春だろう」との嘘情報を関東軍内部に振り撒いた。秦は、小野寺信・スェーデン駐在武官からの「八月初旬のソ連軍の対日侵攻がヤルタで合意された」の電報を読んでいるから、この嘘情報は意図的であった。

 7月10日付け軍令陸甲第106号で新設された“風船(案山子)師団・旅団”を表4に纏めておく。       

表4;通常師団の戦闘能力なき風船のごとき六流師団・旅団

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226125208p:plain

(備考)表4は、未完成。

1945年6~7月、支那から急ぎ転入させた四ケ師団は、対ソ戦力になりうるか

表5;アリバイ工作で支那から転入させた四ケ師団、および118師団の遠方への奇怪な追放

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226125320p:plain

 駐蒙軍の第118師団は絶対に動かしてはならない対ソ戦上の重要師団だが、これを(5月末、四ケ師団を支那から臨時応援に関東軍への移動命令を出しておきながら、その後に)わざわざ必要性がない上海方面に逆送的に追放した。一方、支那からの臨時派遣の四ヶ師団の方は、現実には移動した直後だからほとんど役に立たなかった。

 そもそも第118師団は、帝国陸軍きっての勇猛果敢な第一級の軍司令官であった根本博・中将が指揮する駐蒙軍の麾下にあった。つまり、それが即製師団であろうとなかろうと、根本の第118師団と対峙するソ連軍部隊はかなりのダメージを蒙る。このようなソ連軍への痛打の反撃は、ソ連軍の東京出張所となっていた陸軍参謀本部としては、“日本の大切な大元帥スターリン様”への誓約「全ソ連軍を無傷で満洲に侵攻させてあげる」に違背すると考えたからではないか。そうでないと言いたいならば、第118師団を不必要な上海方面へと転出させた理由を言い募ってみよ。

案山子と風船で兵員数だけ揃えた“戦力無き”関東軍の目的は“大敗北すること”  

 最終的に対ソ戦の関東軍の兵力は、次のように編組された。全てが即製師団・旅団か風船師団・旅団で、1943年夏以前レベルの真っ当な師団・旅団は一ヶとして無い。表6は、即製師団・旅団は□で囲み、風船師団・旅団は下線とし、支那からの臨時派遣4ヶ師団はイタリックにした。    

表6;大敗北することが目的に編制された“世界史に残る狂軍”「1945年8月の関東軍」  

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226125843p:plain

(備考) 第79師団は、1945年2月、朝鮮にあった留守第19師団&留守第20師団とで編制した即製師団。1945年5月末、関東軍への転入が下達されて満洲に移動。なお、表6は未完成。

 

 表6の関東軍の全体編成からすぐにわかることは、侵略ソ連軍に決して損害を与えないようにすることが日ソ間で合意されていたことだ。「宗主国の“侵略ソ連軍様”には無血・無傷で全満洲を占領して頂く」ことが、東京の陸軍参謀本部と新京の関東軍総参謀部の絶対方針ということだ。

 なぜなら、満洲へのソ連軍侵略のあと、無傷の在満洲連軍をトップにして関東軍毛沢東の紅軍共軍)とで編制される日ソ中の三者合同軍は、1945年秋、蒋介石・国民党軍の討伐に支那本土に侵攻することになっていたはず。だから、侵略ソ連軍の軍事力は温存させねばならなかった。スターリン日本陸軍毛沢東の三者合意は、1937年7月7日に近衛文麿が独断専行して対・蒋介石の戦争を開始した直前までに無文書で締結されていたと考えられる。尾崎秀実の検事尋問調書は、これを傍証する。

 実際にも、ソ連武装解除された関東軍の武器弾薬すべてを、この満洲侵略ソ連軍から右から左へとタダでもらい受けた毛沢東の紅軍は、1947年、支那本土への侵攻を開始した。二年間ほどで毛沢東はこの内戦に勝利して蒋介石を台湾に追放し、1949年秋、支那全土の制覇・赤化の産物である華人和国中共の樹立を世界に宣言した。ソ連GRUの傘下にあって、スタ-リンを“日本の大元帥”と仰いだ帝国陸軍参謀本部関東軍総参謀部の悲願は、自らの自滅の犠牲をもって、1945年8月から四年後に花を咲かせたことになる。共産主義者は、他国に侵入して布教するイエズス会の宣教師や現地信者と同類で、その狂信さは非改宗の自国民・自民族に対する大量殺戮ホロコーストを厭わない真に恐ろしい殺人鬼集団である(表1は、そのほんの一部)

帝国陸軍のいったい誰がこのべら棒な祖国反逆(=対ソ戦の即時大敗北)を推進したか ──秦彦三郎と服部卓四郎と笠原幸雄と松村知勝と池田純久の、祖国叛逆“五人組”犯罪

 満洲の在来師団を根こそぎ満洲外におっぽり出す“満洲の防衛空洞化”は、米国に対する太平洋戦争が敗北必至へと転換した1943年8月~10月に決定されている。このことは、この時の参謀本部参謀総長/参謀次長/作戦部長/作戦課長、並びに関東軍の総参謀長/総参謀副長/作戦課長が、この決定の決裁をしているから、それらの人物が犯人だということになる。

 表1が示すように、少なくとも、次の軍人がそれに該当する。参謀本部では秦彦三郎/眞田穣一郎/服部卓四郎が、関東軍では笠原幸雄/池田純久/松村知勝/草地貞吾である。このうち、他の事件や各種情報から、ゴチック「秦彦三郎/服部卓四郎/笠原幸雄/池田純久/松村知勝」は犯人だと確定できる。眞田穣一郎/草地貞吾は限りなく黒だが、いったんこのリストから外しておく。

 また、綾部橘樹(注4)ソ連工作員であったろうことは濃厚だが、未確定にしておく。

“反共反ソ”の根本博を満洲から左遷追放した、関東軍参謀本部の犯人は誰?

 1943年10月から本格化した“満洲防衛がら空き化”の一つに、兵力だけでなく、人材のがら空き化も実行されていた。目立つほど優秀で“反共反ソ”根本博中将を、満洲関東軍から支那派遣軍への追放は、この端的な例であろう。根本博こそ、“日本の小パットン将軍”との称号が与えられるにふさわしい本物のサムライ将軍であった。

 根本博が満洲の第3軍司令官になったのは、1944年2月だった。それが在勤たった九ヶ月で北支那方面軍へ飛ばされた。しかも、支那派遣総軍の中では最弱小の駐蒙軍の司令官にである。具体的な麾下の兵力でいえば、ウスリー川対岸のソ連軍第一方面軍に対峙する関東軍第3軍は、「師団×4+独立混成旅団×1+混成連隊×1」の兵力があった。一方、駐蒙軍は、「118師団一ヶと独立混成旅団一ヶと(旅団以下の)独立守備隊一ヶ」という目立つほどの弱小軍であった。

 しかも、たった一ヶしかない師団・第118師団(注5)を、東京の参謀本部は上海方面へと転進させる命令を発したのは、すでにソ連軍の外蒙古を含む東側からの満洲侵攻が目前に迫っている1945年4月?だった。「米軍が上海に上陸する」とのスーパー嘘理屈での対ソ防衛戦からの追放である。

 米軍の対日侵攻ルートには支本土や済州島・南部朝鮮など全く視界に入っていない。こんな自明な情況は、素人だってわかる。すなわち、第118師団を、駐蒙軍から引き抜き支那中部へと追放転身させたこと自体、ソ連軍の東京支部となっていた陸軍参謀本部は、「侵略して下さるソ連軍様に損耗を強いてはいけない」と考えていたことを示す。

 ともあれ、根本博を第3軍から駐蒙軍へと左遷追放した参謀本部関東軍の犯人を割り出す必要がある。また、第118師団を上海方面に転出させた参謀本部の犯人も割り出す必要がある。これらの犯人は、ソ連と通謀し満洲と日本とをソ連に献上することに知恵を絞った“悪のソ連人”だからである。

第2節 大東亜戦争は、日・ソ・中三ヶ国同盟軍による東アジア共産化  

 東アジア(東亜)に対するソ連の侵略は、独裁者スターリンの同時期の構想である以上、東ヨーロッパ(東欧)に対するソ連侵略の鏡像的に同一であるはずである。ヨーロッパに“鉄のカーテン”を降ろして自由社会から切断したように、東アジアにも“鉄のカーテン”を降ろすことを考えていたはずである。それをどこに降ろすかは、1945年5月時点のヨーロッパを概観すれば、簡単にわかる。

欧州の“鉄のカーテン”と東アジアの“鉄のカーテン”  

 “鉄のカーテン”は、チャーチルが作った言葉だから、チャーチルの定義を思い出そう。 

バルト海のシュテッティンからアドリア海トリエステにかけて、欧州大陸を遮断する“鉄のカー テン”が降ろされたのであります。この一線を境に中欧および東欧の古い諸国の首都が隠されてしまいました。ワルシャワ、ベルリン、プラハ、ウィーン、ブタベスト、ベルグラード、ブカレスト、ソフィアという名高い首都とそれを中心とした住民すべてが、ソ連圏に入り、ますます厳しさの加わるモスクワからの統制を受けているのであります」(1946年3月、ミズーリ州フルトン、注1)。  

 スターリンが、「東亜」に降ろす予定の“鉄のカーテン”は、次の一線。北はカムチャッカ半島から、日本列島と支那大陸の太平洋沿岸部を下り、インドネシア/ビルマを含む東南アジア全域を含む南のシンガポールを結ぶ線

 スターリンが生殺与奪をもって独裁支配する「共産化した東亜」のうち、最大の要は日本。それには、日本が“米国製ポツダム宣言”を拒否して、ソ連と同盟関係を結び“日ソ対米国の本土決戦”に突入してくれなくてはならない。つまり、日本が本土決戦=継戦をしない限り、日本のソ連圏入りは果たされない。また、「日本の本土決戦=継戦→事実上の日本のソ連圏入り」こそ、東アジア全体の共産化を目的とした“八年間にわたる大東亜戦争”の総仕上げであるから、日本の本土決戦の中断は、この総仕上げを中途で投げ出すことになってしまう。

 1945年8月14日深夜から翌15日未明にかけての宮城クーデター事件とは、教条的コミュニストで“ソ連人”阿南惟幾・陸軍大臣が、スターリンの命令に従って、日本の共産化とソ連圏入りを確実にする第一段階として決行したものであった。それはまた、陸軍中枢を八年間一貫して掌握した共産主義者エリート陸軍将官と将校たちが、満洲ソ連に占領されたことに歓喜して、「日ソ軍事同盟が締結できる事態がついに到来したぞ、万歳!」「“日本のソ連圏入り=日本の、ソ連の属国化=日本の、ソ連邦16番目の人民共和国”が実現寸前になったぞ、万歳!」と、勇気百倍、東アジア全域の共産化に向けて感涙していた情況に呼応したものでもあった。

 阿南クーデターは、“超過激な共産主義者”平泉澄の「皇国史観」が、その正体である“スターリン崇拝教”の顔を公然と表に出した瞬間でもあった。阿南惟幾は、マルクス・レーニン主義を民族色に化粧した「皇国史観」の信者でもあり、宮城クーデター叛乱部隊の主力を「皇国史観」教の狂信者(=全員が、ソ連工作員から集めた。

 阿南惟幾は、昭和天皇ポツダム宣言受諾の“ご聖断”を破棄させ大東亜戦争を続行させるために、8月15日正午に放送予定の玉音版を奪って破壊するだけでなく、昭和天皇を逮捕軟禁して、「ポ宣言を受諾せず」の詔勅渙発されるよう脅迫する予定であった。場合によっては、昭和天皇を銃殺し、ポツダム宣言拒絶の偽詔勅を発する予定であった(注2)

 陸軍が1944年頃から盛んに宣伝した“本土決戦”とは、昭和天皇と日本国民を騙す詐称スローガンである。“本土決戦”とは、日本列島に進駐したソ連軍と日本軍とが共同して、進攻してくる米国陸海軍と死闘を演じる対米戦争を指す。この場合、米国が日本列島を占領することができず断念する可能性はあり得たから、阿南惟幾らが自信を持って公言した「本土決戦すれば、日本にも勝機が訪れる」は、まんざら嘘ではなかった。

日本を救った、米国のポツダム宣言/ヒロシマ原爆、そして沖縄占領

 「東亜」では、「東欧」と同じにならず、“アジア版の鉄のカーテン”がすぐには降ろされなかったのは、日本が昭和天皇の“ご聖断”で間一髪、米軍に降伏したからである。つまり、“ご聖断”をもたらしたポツダム宣言(注4)ヒロシマ原爆が“アジア版の鉄のカーテン”を暫時延期し縮小した。お蔭で、日本が1944~89年の共産国ポーランドの悲惨に遭遇せずに済んだ。1945~89年のハンガリーやチェッコの悲惨を味わずに済んだ。  

 この意味で、(「親日」のスティムソン/グルーらが書いた)ポツダム宣言(「反共・反ソ」のバーンズが主導した)ヒロシマ原爆とは、“ご聖断”に直接集約され日本を救った正真正銘の “二つの神風”となった。これが正しい歴史で、1960年代までほぼすべての日本人の常識だった。

 このため、“ご聖断”の昭和天皇への感謝と敬慕はむろん、ポツダム宣言が日本を救った」「ヒロシマ原爆が日本を救った」は、日本国民が広く共有する常識であり見識だった。だが、1970年に入るや、この正しい歴史は日本人の脳裏からあっという間に消滅した。この理由と経緯についての考察は、本稿の任ではないので割愛する。  

 ①ポツダム宣言と②ヒロシマ原爆に次ぐ、日本を救ったものの中で、1945年6月の③米軍の沖縄占領は突出していよう。なぜなら沖縄は、「東亜」の“鉄のカーテン”の内側に食い込んだ楔であり、「東欧」における西ベルリンなどとは比較にならない、スターリンの「東亜」“鉄のカーテン”つぶしの橋頭保だったからだ。「東欧」でいえば、チェッコスロバキアの西半分チェッコ全体に相当する。いや、それ以上の戦略的要衝の地で、東アジアにおける地政学的な価値は値千金どころではない。  

 沖縄とはこのように東アジアでは満洲とともに突出した戦略的要地である。故に、沖縄を制する者が東アジアを制する。“ソ連人”種村佐孝は、課長が病気だったため、実質的な参謀本部戦争指導課長だったが、「沖縄をソ連様に献上しよう」と、白昼公然に参謀本部陸軍省内を説いて回っていた。ソ連が沖縄に進駐すれば、それこそ「東亜」“鉄のカーテン”はできたも同然。

 次の引用文は、種村が参謀本部内でばらまいた署名入りの「今後の対ソ施策に対する意見」(1945年4月29日付)の一節である。公然と、「沖縄をソ連に割譲せよ」とある。4月29日の日付は昭和天皇のご誕生日で、意図的に“「コミンテルン35年テーゼ」に従った天皇制度廃止”を言外に匂わしている。また、この時すでに、4月1日からの米軍の沖縄上陸作戦は開始されていた。  

「四、対ソ施策実施上 わが方の譲歩すべき条件 ・・・ソ連側の言いなり放題になつて眼を瞑る…満洲国や遼東半島(関東州)やあるいは南樺太、台湾や琉球(沖縄)北千島や朝鮮をかなぐり捨てて日清戦争前の態勢に立ち還り・・・」(注5)。

 種村佐孝原案の沖縄ソ連献上論は、ソ連大使館・GRUから強く命令された可能性も高い。いずれにせよ、日ソ中立条約破棄通告の1945年4月時点、日本の陸軍参謀本部は、ソ連大使館・GRUと一体化していた。つまり、日本陸軍ソ連軍が命令する下部機構となっていた。種村の“対ソなんでも献上論”は、「ヤルタ秘密協定」(2月8日、米ソ首脳の私的合意)を踏まえそれにプラスαする内容だから、種村がヤルタ秘密協定を知っていて“スターリンに媚を売った”ことを示唆している。

 小野寺信・駐スウェーデン武官からの「ヤルタ秘密協定すっぱ抜き電報」は、1945年2月中旬に秦彦三郎・参謀次長あてに打電されたが(注6)、どうやら秦は、これを読んで慌てて瀬島龍三らに命じて破り捨てたのは間違いなかろう。秦や瀬島が、参謀本部内のソ連工作員同志である教条的な共産主義者・種村佐孝に、破り捨てる前に、この電報を見せないなどは決してあり得まい。なお、小野寺が打電した内容は、「ドイツ降伏後90日以内の対日参戦」だけで、ソ連への割譲領土の部分はない。

スターリン製の大東亜戦争「戦後構想」に従った、三正面戦争という“日本の狂気”

 大東亜戦争とは、尾崎秀実が検事尋問に陳述するように、すべてスターリンの計画と命令に従った“東アジア共産化革命戦争”である。「日本国の防衛」「自衛」とは次元を異にして全く無関係。大東亜戦争に「反日イデオロギーを巻き付けて「侵略」とする極左勢力の見解には、国際法学的に疑義があり過ぎ、断固と否定する。だからと言って、背後のKGB工作に操られ無知・無教養からの「自衛」論は、日本の国益を根底から棄損する最凶の妄論である以上、絶対に排撃せねばならない。“共産化革命戦争”を「自衛の戦争」と言い張る詭弁は、正常な思考の枠を超え狂気といえる。

 特に、大東亜戦争を肯定することは、スターリンに日本国の外交と戦争の主権を奪取された“日本の主権放棄”を逆立ち的に是認する“スーパー反日の極み”ではないか。大東亜戦争肯定論を日本国から完全に一掃しない限り、日本の主権回復はあり得ない。

 このような国際法あるいは正しい歴史学からの大東亜戦争の検証を一歩離れて、ここでは純軍事学的に大東亜戦争を冷静に自省するに留める。そもそも日本の陸軍力は、“対ロシアソ連防衛”あるいは“ロシアのアジア侵略阻止”で精いっぱいで、対ロ一正面の軍事力しかない。それなのに、第二正面として永久に終わらない対支那全面戦争をすれば、それだけでも第一正面の軍事力は脆弱となる。さらに、ロシアソ連は極東軍事力を五倍から十倍に急増/急強化したのだから、第一正面は、この対支那第二正面に割いた軍事力をすべて転用しない限り、日本とロシアソ連は均等(parity)のバランス(均衡)を図ることはできない。

 それなのに、「1944年11月6日のスターリン演説/1945年2月中旬のスウェーデンからヤルタ秘密協定すっぱ抜き電報/同年4月5日の日ソ中立条約破棄通告/同年5月7日のドイツの降伏」という危機のシグナルをいくつも手にした時点で、なぜ日本は、蒋介石に対して一方的和平通告を発出して、先述の通りの支那戦線の終結と満洲防衛への転用をしなかったのだろうか。ところが参謀本部は逆さにも、この頃、支那派遣軍に「米軍が上海その他に上陸するから、その防備を固めろ」のありもしない真赤な嘘命令を出している。沖縄戦を開始した時点で、米軍は支那済州島などには一兵も割かず)一直線に日本本土制覇を目指すのは、当時の小学生にもわかる自明な事柄。

 参謀本部のこの “真赤な嘘情報”「米軍は支那南部に上陸の予定」を流した目的は何か。①支那派遣軍の中に強く芽生えていた「満洲防衛に駆け付けるべきだ」の声を封殺するため、及び②ソ連軍の満洲制覇後に創られる“ソ連軍・関東軍中共軍の三者合同軍”に日本の支那派遣軍を合体して、蒋介石・国民政府軍を一気に支那から追放するため、であろう。しかも参謀本部は、支那派遣軍をソ連軍の麾下に置くべく、そこから最初に参加する“日本赤軍”として第11軍をその任に命じていたようだ。第11軍が、コミュニニスト将校を集中的に集めていたのは、満洲侵略後のソ連軍や毛沢東の紅軍中共軍)に即時呼応する準備であろう。  

 話を本題に戻す。第三正面の対米英戦争が、満洲樺太を100%確実にソ連に献上するためであり、「東亜」“鉄のカーテン”を降ろすためであることは既述の通り。ここで指摘したいのは、蒋介石に対する一方的和平通告と同時に、1945年5月までに、なぜ米英に対してスウェーデンかスイスを通じての和平交渉を開始するとともに)ハル・ノートを受諾する」旨の政府声明と一方的停戦を通告しなかったかである。米国は、この5月、対日降伏勧告を発している。  

 米国の国情は、バーンズ国務長官などの“反共・反ソ”は少数としても、トルーマンのような“やや反共・やや反ソ”が大多数である。ルーズヴェルト大統領のような“親ソ・容共”は例外、そんな国柄が米国である。当然、日本の「ハル・ノートを受諾する」旨の政府声明と一方的停戦通告を、米国が即座に受諾するのは見え見えだった。そうなれば、「スターリン様に満洲樺太を献上する=東アジア共産化の第一歩」は、雲散霧消する。この事態を阻むには、「スウェーデンかスイスを通じての和平交渉の開始」や「ハル・ノート(備考)を受諾する」旨の政府声明や「一方的停戦通告」の国内動きを封殺するほかない。   

(備考)「ハル・ノート」の条件は、種村佐孝の対ソ“お土産”意見書や近衛文麿特使の“お土産”に比すれば、何百倍も何千倍も穏健で親日的なもの。  

 だが、日本国内に「和平の要望」は静かだが大きなうねりになっており、それを止めることはもはや不可能になっていた。そこで赤い陸軍省と赤い参謀本部が考えたのが、ソ連に嘘ラベル「和平仲介」を依頼するというもの。①米英との直接和平を封じるだけでなく、②ソ連満洲樺太侵攻用の兵力移動時間を稼がせる一石二鳥の妙策であった。

 駐ソ大使・佐藤尚武の「ソ連の和平仲介などナンセンス」を足蹴にして、“天下の白痴”廣田弘毅ソ連の希望通りマリク駐日ソ連大使とだらだら交渉をした、廣田の罪は重く、東京裁判での絞首刑に同情するのは、日本国の国益を毀損した大罪からすればお門違い。廣田の後を継いだ近衛文麿は、廣田よりも何十倍も罪は重い。近衛は、「満洲/朝鮮/台湾を捨てる」だけでなく、「沖縄/小笠原/得撫島以北の千島列島ソ連に割譲」し、加えて「日本の男児を奴隷としてソ連(シベリア)に提供する」と、祖国叛逆の“お土産”をスターリンに渡す予定だったからである(注7)。

 ともあれ、米英に対する日本の第三正面の戦争が、停戦が4~5月には十分に可能であったのに数か月も遅れようやく8月15日に停止できたのは、ひとえにポツダム宣言ヒロシマ原爆という“偶然の僥倖=神風”による。そして、昭和天皇の“ご聖断”ポツダム宣言受諾による米軍の進駐が、その後に創られたスターリンの“「東亜」鉄のカーテンを”北朝鮮/中共支那満洲/北ベトナムの線でいったん中断させ、日本と台湾をカーテン外に弾き出してくれたのである。

 

第1節

1、これらの戦後出版された回想記は、表7を参照のこと。       

表7;ソ連軍に無血で満州を占領させたソ連の英雄”の、戦後アリバイ工作(偽情報)

f:id:nakagawayatsuhiro:20151226130125p:plain

2、草地貞吾『関東軍作戦参謀の証言』、芙蓉書房、23頁。

(備考)芙蓉書房は、北朝鮮系出版社で、編集すべては血統上の朝鮮人のみ。

3、ロシア語を自由自在に操る“ソ連工作員”笠原幸雄の主経歴は、駐ソ武官が1929年12月~、参謀本部ロシアソ連班長が1932年1月~、同ロシアソ連課長が1936年8月~。参謀本部の人事を担当する総務部長・神田正種(1939年10月2日~)は、ノモンハン戦争の「主犯格」で“スターリン狂徒”の辻政信が予備役編入されるのを寸前で阻止したが、辻擁護という、この異常な人事は、前任の笠原幸雄(1938年12月10日~1939年9月23日)からの強い要望(引継ぎ)の可能性が高い。むろんこの場合でも、神田正種がソ連工作員でないことにはならない。

4、綾部橘樹のソ連駐在武官付き補佐官は、・・・年・・・月。

5、マンネルへイム・ラインの簡単な説明は、例えば、加登川幸太郎監修『第二次世界大戦通史―全作戦図と戦況』、原書房、24~5頁、などを参照のこと。

6、第118師団は、ソ連軍が満洲に侵略を大規模に開始した1945年8月9日に、駐蒙軍への帰軍を命令され北上したが天津あたりで8月15日を迎えており張家口には戻っていない。が、多くの文献には張家口に戻ったかのような間違いが記述されている。桑田/前原『日本の戦争―図解とデータ』、原書房、66、など。

 

第2節

1、チャーチル第二次世界大戦〈4〉勝利と悲劇』、河出書房新社、288頁。

2、スターリン直属の共産革命部隊だった阿南・平泉が率いる宮城クーデター叛乱部隊を阻止した、“真正の愛国者”である森赳近衛師団長と東部軍司令官田中静壱への賞詞や顕彰が戦後の日本に全く存在しない。吉田茂から中川八洋に細々と続く、正当な保守主義者を除き)日本人のほとんどが大東亜戦争によって共産主義者かそのシンパかに洗脳されたからである。つまり、大東亜戦争は、日本から愛国者を死滅させる当初目的の一つは完全に達成した。

 大東亜戦争による赤化洗脳の阿片効果は絶大で、日本国から愛国者を一網打尽にほぼ一掃したことは、日本の大学や新聞社が共産主義者たちの棲息する“赤蛙の赤色の池”となっているだけでなく、「右翼」と目される靖国神社関係者や日本会議など民族主義の団体や論客を見れば一目瞭然ではないか。『WiLL』や『正論』を“お経”とする後者は、“日の丸を掲げる〈共産党の別動隊〉”のカルト宗教団体である。それもよくよく見れば、目も当てられない下等動物に近い“共産主義者の亜種たちの動物園”のようなカルト宗教信者の群れである。

 だから、民族系は、昭和天皇の“ご聖断”を守るに文字通りの命を捨てた“真正の愛国者”森赳や田中静壱の憂国の至誠に対し、逆立ちして敵意を露わにする。偽装右翼の田中卓や昆虫脳の長谷川三千子は、この好例。

3、共産主義者は、「共産」を偽装語に置き換える場合でも、「共」の字を捨てることは稀で、近衛文麿らは「共産」「共栄」として宗教的経文キーワード「共産」を堅持した。1991年のソ連邦崩壊に際して日本共産党は、「共産社会を目指す」を「共生社会を目指す」に変更したが、意味が同じなのは、この理由による。

4、ポツダム宣言について一言。7月26日に発せられたポツダム宣言は、純スターリン作の「2月8日ヤルタ秘密協定」(三者の署名は2月11日)とは本質的に異質で対極的なもの。ポツダム宣言は完全な米国単独の起草で、トルーマン大統領と“反共・反ソ”バーンズ国務長官が意図的にスターリンをいっさい関与させなかったからである。英国と中華民国の署名は、電話で了解を取って米国が代筆。

 原案起草者の中心人物は“親日”の陸軍長官スティムソンで、これに“超親日”の国務次官ジョセフ・グルー(元駐日大使)と海軍長官ジェームス・フォレスタルが加わった「三人委員会」でまとめられた。だから、“天皇制度の護持を認める”が言外に濃厚に漂っており、日本に好意的にひたすら早期降伏を促すものとなっている。

 「ヤルタ・ポツダム体制」という奇語妄語は、スターリンとグルーが同一だとする出鱈目こじつけの噴飯物だが、偽装右翼で“スターリン崇拝者”田中卓の造語である。田中卓は、「反日」の悪意に満ちている以前に、頭がおかしい。

 また、近年の日本では、バーンズを誹謗中傷する、ロシアKGB工作員&日本/米国共産党員の出版物が目立つ。バーンズとは、トルーマンがうんざりするほど強烈な“反共・反ソ”で、「米国の核兵器で、スターリンの世界制覇の野望を打ち砕け」を信条とする(パットン将軍やアレン・ダレスに並ぶ)自由社会擁護の逸材。このため、日本共産党員でロシアKGB第一総局SVRの“売国奴”鳥居民などは、気が狂ったかのようにバーンズ攻撃に余念がない。スターリンになり替わってバーンズに復讐している積りだろう。鳥居民の“真赤な嘘歴史”『原爆を投下するまで日本を降伏させるな――トルーマンとバーンズの陰謀草思社は、鳥居民の正体が狂信的スターリン教徒で“極め付きの反日”だと暴く、まさに“スーパー毒書”である。

5、『終戦工作の記録〈下〉講談社文庫、64頁。

6、『産経経聞(夕)』1993年8月13日付け。小野寺百合子氏談。

7、上掲、『終戦工作の記録〈下〉』238、239、241頁。            (以上、未定稿) 

中川八洋掲示板は、amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。