中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

スターリンの命令通りに、大敗北を演出した関東軍のノモンハン戦争 ──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史23

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 

 西尾幹二の“世紀のスーパー「反日」本”『GHQ焚書図書開封』は、第十一巻の『水戸学』以降、音沙汰がない。西尾幹二の予告によると、第十二巻は『地球侵略国家ロシア』。だが噂では、西尾はこの巻を投げ出して、書くのをあきらめたらしい。

 この噂、嘘か本当かは未だわからない。が、歴史音痴の無知無学な“稀代のペテン師評論家”である上に、ヒトラーがロシア人に化けたような“畸形ロシア人”西尾幹二にロシア対外膨脹史など真っ当に論じることなど天地が引っくり返っても不可能だから、この噂は本当かも知れない。この場合、私には甚だ不都合で、実は戸惑っている。

 なぜなら、西尾幹二が荒唐無稽を通り過ぎて笑止千万な逆立ちロシア論の本を出版することを見通して、昨年から用意してきたそれを批判・批評するかなりの数の論文がふいになってしまうからだ。今般、そのうちの一つ、「ノモンハン戦争」に関する、自分の予備的な研究を発表するのは、なかなか出版されない西尾幹二の『GHQ焚書図書開封』第十二巻を待ちくたびれたからである。私には、徳川家康のような“待ちの忍耐”が欠如している。

第一節 “観客”ヒトラーに捧げたスターリン脚本の“戦争演劇”「ノモンハン戦争」  

 戦後日本で「ノモンハン戦争」研究は、八年間の大東亜戦争に関する歴史研究の中では、相対的に、少ないとは言えない。むしろ、歴史の片隅に追いやられ現在の日本人が完全に忘却した多くの戦闘・戦場の歴史に比べれば、格段に多いともいえる。歴史学の範囲には含められない、単なる戦記読み物も結構な数になる。

 これら「ノモンハン戦争」の歴史研究書や歴史小説あるいは回想記を精査すると、①戦時宣伝的なプロパガンダ本が多すぎること、②外交史からの研究論文が一本もないことなど、何か異様で奇怪な黒雲が覆いかぶさっている。特に、②のような、特定分野の研究を検閲的に禁止する特異さは、偶然ではなく意図的な操作の痕が見え隠れする。「ノモンハン戦争」関連図書の全般に通じる異様で奇怪で不可解な特徴は、ソ連邦が崩壊して新ロシア帝国に再編された1991年以降においても変わることがない。むしろ益々、強まっている感がする。

  具体的な例を挙げる。「ノモンハン戦争は、日本の完全なる全面敗北」を確定した1939年9月16日の停戦協定1941年10月の講和協定(=国境画定議定書)に関する、日ソ間の交渉過程を研究した学術論文が一本もないのは、どういうわけだ。もう一度言う。ポツダム宣言の受諾やミズリー号甲板での降伏文書調印と同じ、日本側の全面敗北を日ソ間が公式に合意した1939年9月16日の停戦協定1941年10月の講和協定(=国境画定議定書)に、「ハルハ河が満洲国の国境だ!」と外交交渉を排除して直ちに戦争で決着をつけようとした陸軍参謀本部関東軍参謀部が何らの条件をつけず静かに「了解=受諾」した謎について、学術的研究が全くゼロなのは、どういうわけだ。

 歴史の真相は、東京の帝国陸軍参謀本部満洲・新京の関東軍も、スターリンから渡された「“凄惨な大敗北”の対ソ戦を演じよ」のシナリオに従った対ソ戦争を完遂したことで十全に戦争目的を果したと満足していたからだろう。要するに、「ノモンハン戦争」は、出先の関東軍の暴走の形をとった、陸軍全体が事前にスターリンと打ち合わせた“日本の大敗北を演劇する対ソ戦争”だったと推断してよかろう。

 「ノモンハン戦争」の敗北を糊塗すべく辻政信などを美化するトンデモ有害本はむろんだが(注1)、それ以外の「ノモンハン戦争」関連書が次から次に出版されるのは、「ノモンハン戦争」の最核心の真実を隠蔽したいからと思われる。特に、「ノモンハン戦争」の1939年夏から五十年以上が経った1991年以降、“真赤な嘘プロパガンダ”「日本は負けてなかった」を垂れ流す出版物は、日本側の計画的な大敗北とそれがスターリンからの命令遂行だったことを隠蔽するための“真赤な嘘プロパガンダ”が目的である。日本国民を騙すための偽情報宣伝である。

 この典型は、学術的なものでは田中克彦の『ノモンハン・ハルハ河戦争』(シンポジウムは1991年5月)歴史小説では半藤一利の『ノモンハンの夏』(初出は1997年)田中克彦はロシア対日工作員だし、半藤一利は人も知る名うての日本共産党員。

 戦闘による戦死戦傷者数の比較にすり替えての、「ノモンハンで、日本は負けてなかった」などの馬鹿馬鹿しい“真赤な嘘プロパガンダ”を洗浄除去して、われわれ健全な日本国民は、「ノモンハン戦争」の真相を抉りださねばならない。それこそが、日本の祖先が歩んできた苦衷と悲惨な歴史の正しい真実を手にして、我ら真正の日本国民が、ロシアの情報奴隷から自由を復権することである。ロシアに本籍を置く“歴史の偽造屋”が跳梁跋扈して腐敗と狂気で朽ちなんとする現在の日本から、嘘や虚偽を除菌的に排斥して“清浄されて明朗なる歴史”が満ちる国に再生しなければ、日本人は歴史を失う。

 これが、研究はまだ中途にも拘らず、ノモンハン戦争に関する私の研究の一端をここに披瀝する理由である。

軍事史は、外交史/戦史/諜報謀略史の三分野を総合する上位の学問  

 日本の大学は、国際的には劣化が激しく、特にその文科系は今や“愚者たちが戯れる楽園”となった。世界が呆れるように、日本の大学の文科系学部は、“教授は馬鹿か赤ばかり、学生はアホかバイトばかり”となった。当然、これらアホバカ教授たちは、学問のイロハすら教えることができない。例えば、現代史は六つのサブ分野の総合だが、現在、日本の大学教授は、これすらわからないのがほとんど。

 六つのサブ分野とは、1;ソ連の対日非公然工作史(諜報謀略史)、2;軍事史(戦争史)、 3;外交史、4;戦史(戦闘経過史)、5;政治史、6;財政・経済史のこと。

 具体的な事例で再説明すれば、大東亜戦争の歴史全体を真正面から研究するのを、軍事史研究という。この軍事史研究をするためには、「ソ連の対日非公然工作史(諜報謀略史)軍事史(戦争史)/外交史/戦史(戦闘経過史)」に関しての該博な知識が必要。なぜなら軍事史は、これら三分野を踏まえてそれを上位に総合する学問だからである。チャーチルの『第二次世界大戦(要約版が河出書房新社は、軍事史研究の白眉で、ノーベル文学賞の受賞作品となった。リデル・ハートの『第二次世界大戦(フジ出版社)は、これに次ぐ(注2)。  

 だが、日本の歴史学者は国際的には頭が悪く2ランクは低いため、軍事史の範疇に属するこのような通史を書ける学者がいない。さもこの種の通史かに誤解されている服部卓四郎の『大東亜戦争全史』は、服部がコミュニストソ連工作員である証拠資料の一つで、服部を犯罪者として裁く刑事法廷には用いても、学術性あるものとして扱うのは本末転倒。  

 話を、第二次世界大戦大東亜戦争の全体でなく、その一部である「ノモンハン戦争」に戻す。ノモンハン戦争に関する軍事史研究で、日本の学者・研究者が書いた価値あるものはほとんど存在しない。最もひどいのは戦史叢書『関東軍1』。軍事史ではなく戦史やその回想記も、辻政信ノモンハン』のように、戦争の真相を隠蔽せんとする犯罪的手口が露わで、読んでいて気分が悪くなり嘔吐を催したくなるのが多い(注3)

 私が評価している「ノモンハン戦争」研究書には一冊だけある。岩城成幸の『ノモンハン事件の虚像と実像』(2013年)。その第七章は、諜報謀略分野への視点でまとめられている。分量的にも分析的にも不十分であることに目を瞑れば、ノモンハン戦争の真相を解明する萌芽的方法の提示になっている。

 米国人の著作だが、ゴールドマン博士が2012年に出版した『ノモンハン1939』(邦訳は2013年、みすず書房は、諜報謀略史分野の論及が全く欠如する瑕疵はあっても、また独ソ不可侵条約締結のためノモンハン戦争を画策して惹起せしめたとの最核心には気づいていないが、ノモンハン戦争を独ソ不可侵条約締結と結びつけた点で、方法論的に軍事史研究の良書である(注4)

 ノモンハン戦争の戦史研究といえば、戦史叢書『関東軍1』を除けば、秦郁彦の『明と暗のノモンハン戦史』と牛島康充の『ノモンハン全戦史』が代表。だが両書とも、表題の通りに“戦史”に視野狭窄して、上位の“軍事史”に昇格させようとの気配がない。戦史研究としての彼らの努力は十分に理解する積りだが、両名が軍事史・外交史・諜報謀略史に牽連・総合化しようとしない発想には賛成できない。

1939年春のスターリンの脳内を解剖する  

 第二次世界大戦の主役を演じた戦争主義者トップ・ツーは、ともに世界史に残る外交天才であった。いうまでもなく、ヒトラースターリンの二人である。スターリンは二正面作戦を回避することを絶対としたが、これを評価上の最重要要素とみなせば、ヒトラーを凌ぐ天才の中の天才であった。

 世界共産化という最終目的を狂信する“地球規模の大宗教家”でもあると同時に、戦争後を透視できる未來予見力のIQを持つスターリンの、その世界を見詰める眼光は、尋常な政治指導者の及ぶところではない。1938年3月~39年3月、大膨張を開始したドイツの牙からソ連を防衛するに、スターリンはまず次のように判断した。  

 第一は、ヒトラーは“脅迫によるチェコ解体併呑”のあと必ずポーランドを軍事占領し、その勢いのままソ連に侵攻する。それは、表1に示すヒトラーの東欧併呑・侵略のトレンドにおいて明白すぎる。これを阻止するのは、ヒトラーに「ソ連軍は意外に強く、簡単には軍事的制圧など出来ませんよ」のメッセージを与えるしかないこと。

 

表1;ヒトラーの東欧侵略・併呑に恐怖したスターリン 

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 しかもこの間、1938年11月、スターリンは、スペイン共産革命=ソ連の衛星国化に失敗し自らの軍事的敗北を喫し愕然としていた。スペイン内戦の結果は、1939年2~3月、フランコが勝利しスペインはナチ・ドイツ勢力圏に陥り、ナチ・ドイツが事実上、西欧・東欧の覇者になるのを確実にした。その上、一歩間違えばソ連自体がドイツに急襲される事態こそ濃厚となった。特に、ナチ・ドイツに日本が連動して東側から侵攻すれば、ソ連は“万事休す”に陥る。

 

表2;人民戦線政権の敗北と瓦解=スターリンのスペイン軍事制覇の破綻  

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 ここに、スターリンの一世一代の対独外交が展開された。ナチ・ドイツの対ソ侵攻を阻止すべく、ヒトラーの対ソ戦争を躊躇させ、それを思い止ませる秘策の実行である。この秘策の中でも最高なものが、ヒトラー独ソ不可侵条約を締結させることであった。

 この目標に向かってスターリンは、外面的には、対ヒトラーへの阿諛を始めた。1939年3月10日のスターリン演説はその一つ。「ソ連は英仏など信用しない、だから英仏と組んで対独包囲網など決して参画しません、信用するのはヒトラーのドイツだけです」、と。  

 むろん、『わが闘争』で内外に宣言したように、スラブ民族への蔑視においてロシアの制覇も考えていたヒトラーは、「スターリン演説」ぐらいで対ソ政策を大転換する気はさらさらない。スターリンは、外務大臣を、ヒトラーが嫌いなリトヴィノフを馘首して、ヒトラーに気に入って貰えそうなモロトフに変更した(5月3日)。これはかなり功を奏した。ヒトラースターリンと組む方策も、検討する範疇に入れた。  

 だが一方、ヒトラーは、スペインでの対フランコ将軍との戦いで、戦車T-26などを持ちこみ恥ずかしいほどに弱さを露呈したソ連など、ドイツ軍にかかれば鎧袖一触で粉砕できるとも確信していた。スターリンは、ヒトラーに「ソ連軍はそれなりに相当強い」を見せなければ、ヒトラーの対ソ侵攻を招くと戦々恐々だった。

 スターリンが“ソ連の衛星国”外蒙古と極東ソ連軍に関東軍内に外蒙古満州国の国境線とは考えない見解もあることにおいて、国境未画定ともいえる)ハルハ河を超えた「越境」を命じたのは、モロトフ起用直後の5月11日である。わずか数十名の小部隊の「越境」であった。

 (ここからは仮説である)

 つまり、ヒトラー様に、「ソ連軍はそれなりに相当強いですよ」を急ぎ見せなければならない窮地のスターリンは、“子飼いのソ連工作員”小松原道太郎(=未確定国境地帯「ハルハ河―ノモンハン」の近傍ハイラルに駐屯する第23師団の師団長)に対して、「大敗北する対ソ戦をせよ」との命令(1939年2月下旬~3月上旬)を発したと考えられる。日本の関東軍を打ち負かす戦勝劇の他に、ヒトラーの対ソ侮蔑観を、「ソ連も結構強いではないか」に転換させる策はスターリンには見当たらなかった。

 小松原からの「了解した」の返電は、四月末には受けとったのだろう。スターリンとしてはまず小松原の返電が信用できるか否かを確かめる必要があり、上記数十名の小部隊を侵入越境させたと考えられる。それが「第一次ノモンハン事件」のスタートである。

 双方が相互に相手の意思を確認するための“ジャブの出し合い”「第一次ノモンハン戦争」を通じて小松原道太郎を信用したスターリンは、その直後、小松原と阿吽の呼吸での本格的でド派手な戦争活劇を演じる第二段階に移行した。それが、(五月下旬の)ジューコフの前線到着によって始まる「第二次ノモンハン戦争」。ジューコフの前線到着は、『ジューコフ回想録』の六月五日ではなく、正確にはその一週間ほど前。

 すなわち、「ノモンハン戦争」は、小松原師団長がハチャメチャに拙劣な指揮を執ったことによって、あれほどの大損害を出し大敗北したのではない。「大損害を出して大敗北する」計画において初めからそうしたのである。(仮説ここまで)

 「ノモンハン戦争」後に、日本では参謀総長が監督する『ノモンハン事件研究報告』など、多くの反省がなされた。が、どれもこれも、日ソ間の密約に忠実に従った「日本側の大敗北戦争劇」とは捉えていない。むしろ、これらの反省もまた、「ノモンハン戦争」の真相を隠すことに貢献した。

 戦後出版の良識的な「ノモンハン戦争/陸軍批判」で、この核心を突いたものは皆無。須見新一郎(第七師団26連隊長)の小松原師団長批判も、「ノモンハン戦争」それ自体が“国家反逆の犯罪”だとするものではなく、戦場の指揮官としての余りの大欠陥を悲憤して率直に指摘するに留まっている。 

 例えば、「身を隠すすべとてない砂の大地にへばりついているより、一歩を譲って将軍廟付近まで下がれば、対等の条件で戦えるものを…」などは、戦術的には正論(注5)。だが、小松原は日本側の被害をできる限り最大化せんとした作戦を実行したのであって、無能だったのではない。

第二節 小松原・師団長/辻・参謀が実行した「ノモンハン戦争」大敗北劇──磯谷参謀長/服部参謀&稲田作戦課長らは熱烈協賛  

 ノモンハン戦争が、「偶発的なソ連側の国境侵犯に対し、関東軍が暴発的な対抗をしたから始まった戦争」ではないことは、①国境未画定な上に軍事的価値ゼロの場所に過ぎないノモンハン/ハルハ河地帯であること、②すなわち戦略的・軍事的価値がある張鼓峰とは全く異質で異なること、等からも即断できる。  

 張鼓峰を軍事的に死守せんと、天皇の大権を無視して「ノモンハン戦争」と同規模の戦争をしたとすれば、それは“関東軍の軍事的暴走”だと表現して適切である。しかし、こと「ノモンハン戦争」となると、“暴走”などの表現で説明がつくだろうか。「ソ連と通じ、スターリンに捧げた戦争」だと解すること以上に納得のいく合理的な説明があるなら、是非とも聞きたい。このことは、辻政信が起案して直ちに関東軍司令官の決裁となった「満ソ国境処理要綱」(1939年4月25日)の異様な内容からも、余りに明白すぎることではないのか。

ノモンハン戦争を始めることだけのために起案された「満ソ国境処理要綱」  

 「満ソ国境処理要綱」の話に入る前に、実は関東軍は、満蒙国境をハルハ河ではなく、そこから東方20キロのソ連外蒙古の主張する)ほぼノモンハン辺りだと解していた事実を確認しておきたい。1937年の関東軍の「満蒙国境要図」が存在するからである。

 つまり、関東軍には、「国境は、ハルハ河」とする1935年に関東軍陸地測量部が作った地図と、その二年後の「満蒙国境要図」の二つがあった(注1)。いずれを採用するかといえば新しい方に決まっているから、「ノモンハンが国境で、ハルハ河は外蒙古領土内」だと、関東軍は参謀長も参謀部も小松原師団長も心の中では解していたことは間違いなかろう。  

 辻政信が「国境に二説ある」ことを事前に熟知していたのは、前年、辻は張鼓峰紛争に奔走した折、満洲の国境地図を虱つぶしに精査しているからである。国境につき「全く知らなかった」との、辻の戦後出版物『ノモンハン』は、アリバイづくりの真赤な嘘話。

 ここに辻起案の「満ソ国境処理要綱」の奇奇怪怪さがある。辻が起案したのは2~3月だろう。それは、スターリンが、スペイン共産化を断念してソ連軍部隊の全面撤退を決行してから三ヶ月ほど経っていた。「満ソ国境処理要綱」は、仮にスターリン/べリアが小松原に命令し、小松原が「日本大敗北の日ソ間戦争」の開戦を正当化する嘘詭弁を前もって軍令にしておくものだが、三ヶ月間は、この起案を辻にさせる時間として余裕充分だったろう。  

 「満ソ国境処理要綱」は、次のごとく、ノモンハンの国境が未画定であれ、確定したものであれ、「日本側は、国境紛争を外交交渉に委ねず、直ちに軍事力で決着をつけよ」と定めるものだから、天皇の外交大権を侵害せよ」の宣言である。  

「一、満ソ国境に於けるソ軍の不法行為に対しては、周到なる準備の下に、徹底的にこれを膺懲し、ソ軍を屈伏せしめその野望を初動において封殺破摧す」

「三、国境線の明瞭なる地点においては…彼の越境を認めたるときは…急襲殲滅す」

「四、国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官において、自主的に国境線を認定しこれを第一線部隊に明示し…万一衝突せば兵力の多寡ならびに国境の如何にかかわらず必勝を期す」(注2)

 ノモンハンについて国境未画定と考える関東軍の部隊には、出動反対や疑問視を四で封殺できる。国境画定済みと考える部隊には三を提示して、一方的に戦場に送り出すことができる。「ノモンハン戦争」にしか適合しない「満ソ国境処理要綱」を起案したことは、辻政信が2~3月の時点でノモンハン戦争を起こすことを決意していたことになる。「ノモンハン戦争」は偶発的なものではない。日ソ同一の脚本に基づく“日ソ共同の八百長戦争”である。  

 関東軍司令官は、4月25日、兵団長たちを新京に召集し、この「要綱」を示達した。スターリンは、その二週間後の5月11日、ノモンハンに数十名の小部隊を「越境」させた。このタイムリーさは偶然で可能だろうか。また、ノモンハンやハルハ河が遊牧民族モンゴル部族の羊用の草原である以上には何ら価値がない上に、さらに軍事的・戦略的には全くの無価値だから、そのような場所にスターリンが大規模な兵力を投入する理由は、全く存在しない。説明不要は自明すぎないか。  

 小松原の、関東軍司令部への改竄情報電報も、小松原が躍起になって開戦を策謀した証拠として残っている。5月13日付で小松原が打電した越境外蒙軍は「700名」となっている(注3)。が、『小松原日誌』5月17日付で、「700名は虚報、30~50名」と自ら修正している。「700名」は、小松原が意図的な捏造数字をでっち上げた犯罪の、小松原自身の自白である。

黒宮教授の小松原道太郎=「高級ソ連工作員」研究は、ノモンハン戦争研究の白眉

 この「小松原道太郎=ソ連工作員」説にほとんどのページを割いた、米国インディアナ大学の黒宮広昭教授の論文は、「ノモンハン戦争」研究者の間で近頃有名なので、少し紹介しておく。黒宮はまず、総計すると極めて長期のモスクワ滞在とハルピン特務機関長時代を通じての、小松原のソ連への通謀行為の数々を列挙していく。ここまでは、想定の範囲内なので、緻密に事実をよく積み上げたなと感心をしただけだったが、次の論文内容には心底驚いた。

 ノモンハン戦の初戦、小松原師団長に批判的な自分の参謀長・大内孜大佐を拳銃で殺害した可能性があるとの暫定推定(670頁)。私は、大内孜は1937年7月7日に空爆で死亡したとしか知らなかったが、充分にありうるとすぐ納得した。なぜなら、小松原にとって、大敗北しないノモンハン戦争などあってはならず、勝利や不敗を考える正常な参謀だった大内孜大佐は、自分の“世紀の大犯罪”遂行の邪魔である以上、排除するにためらう対象ではなかったはずだ。

 後任の扇廣は狂気の作戦を遂行する小松原に基本的に追随している。生来のおべっか型人格でなければ、おそらくソ連工作員だったと考えられる。特に、戦後、小松原の人格を酷薄とは反対極の温情家だったとする白々しい嘘には鼻白んだ(『私評 ノモンハン

 私と黒宮教授が一致する見解は、第23師団と第六軍のトップ情報はすべてソ連側に筒抜けだったというもので、小松原や扇が直接ジューコフに流していたと考えられる。もしかすると、8月10日に赴任した荻洲立兵・第六軍司令官もこの仲間かも知れない。特に、小松原が1940年10月、病院で病死したとされるが、荻洲が銃殺したかもしれないとの黒宮教授の調査も納得がいく。

 私は、かつて近衛文麿は、べリア直属の日本人工作員に説得され牛場友彦から青酸カリを渡され否応なしに自殺を決行したとの結論に達した。近衛自殺のケースと同じく、ソ連工作員は大任を果たした場合はなおの事、口封じのため殺害されるのが常で宿命。

 ノモンハン戦争でいえば、屋上屋を重ねる第六軍など設置の必要は全くない。とすれば、“ソ連工作員の小松原”を監視するもう一人のソ連工作員・荻洲を小松原の傍に張り付けるために第六軍を作ったのではないか。荻洲の主たる仕事は、ノモンハン戦争の終了後に、小松原を暗殺することだったと私は穿っている。

 とにかく、黒宮教授の結論はこうだ。

「小松原が第23師団長でなければ,ノモンハン戦争は起きていない。また、仮に起きたとしても小松原がいなければ、ソ連が勝利したかは定かでなく、小松原のお蔭でソ連が大勝利したのは事実である。ノモンハン戦争もなく、あるいはその戦争でのソ連の大勝利がなければ、日本は北進した可能性(=対英米戦争をしなかった可能性)があり、二十世紀の世界史は異なったものになったかも知れない」(注4)

ソ連を敗北に追いつめる「兵站基地ボルジャ攻撃」をしない暗愚の関東軍 ──ナンセンスを超えていた辻のタムスク基地攻撃は“戦争ごっこ”  

 関東軍には、大攻勢をかけてくるジューコフ軍団に対して防戦し勝利したいとの意思がそもそも存在しなかった。このことは、ジューコフ大部隊の巨大な兵器・弾薬がすべてシベリア鉄道のボルジャで荷卸しされ、そこから戦場までの数100kmの陸上を輸送しているのだから、ボルジャの兵站基地を徹底的に猛爆すれば、その戦力を一気に半減することなど容易だったのに、それをしなかった関東軍の異常行動で明白。  

 なけなしの爆撃攻撃は、6月27日、外蒙古国内のソ連軍空軍基地タムスクへの爆撃だけで、これとて、掩護の戦闘機77機を別とすれば、「重爆撃機24機+軽爆撃機6機」のたった一回の出撃という形だけのもの。これは辻政信の発案だから、辻が“戦争ごっこ”をしていた証拠である。そこには、「越境」ソ連軍の進撃を防戦し押し戻し敗退に追い込むという、「ノモンハン戦争」の防衛戦闘の根本が欠落している。どう検討しても、こんな航空機部隊のバカげた運用事実において、関東軍は防衛戦闘などしていないと喝破できよう。

 空戦は、日本の国民世論を興奮させる効果抜群で、ド派手な嘘八百の宣伝洗脳にはもってこいの作戦である。最終段階で大敗北の精神的ショックを与えて日本国民を「ソ連は強い」の恐怖に追い込むには、当初段階で、日本人に「勝った」「勝った」の有頂天にしておくのが一番である。辻のタムスク空爆の意図はこれ。少なくとも、関東軍側に「戦争に勝利しよう」との意思がなかったことだけは、このように、爆撃機運用の異常性とボルジャ攻撃の欠落から充分に裏付けられている。 

停戦協定にも講和協定(=国境画定議定書)にも、陸軍は即座に賛成 ──ノモンハン戦争の目的は、これが十分に暴いている  

 いかなる戦争であれ、「その戦争とは何であったか」を真に知りたいのであれば、常識の中の常識だが、まずもって(停戦や終戦など)その戦争の終わりを徹底検証すること、これに尽きる。  

 ヨーロッパにおける第二次世界大戦をおっぱじめたヒトラーの戦争目的が、この戦争の終末期&終了直後にすべてが明瞭となった歴史を思い起せば、この常識はさらに一目瞭然。

 ヒトラードーバー海峡からボルガ川までの)「ドイツ千年王国」は、“薔薇が咲き誇る地上の楽園”ではなく、ドイツに廃墟をもたらす蜃気楼の麻薬だった。ユダヤ人の絶滅を目指したホロコーストは、ドイツ民族の絶滅への前奏曲だった。“廃墟主義の狂人”ヒトラーは、ドイツの廃墟を自らの道連れにして自殺したい悪魔的な狂気で、ドイツを指導するフューラー(総統、独裁者)権力を掌握していたのであるが、これはナチ・ドイツが降伏する数ヶ月前になると、くっきりと鮮明な姿となって立ち現れていた。  

 ノモンハン戦争もそうであって、その停戦と講和(=最終の国境画定)は、ノモンハン戦争を開戦したスターリンと通謀していた)“戦争屋たち”の真意・犯意を露わに暴いてくれる。ノモンハン戦争の停戦状況は、それを担当した外務省や東郷茂徳・駐ソ大使らの外交官によって、その骨の部分だけが細々と今に伝わる。  

 具体的には、9月16日午前2時、モスクワでモロトフ外務大臣と東郷大使が合意した内容は、現状での停戦で、「(国境紛争地の東南部にある)アルシャン区域のみ満州国領土とするが、それ以外は従来のソ蒙の主張の通りとする(主戦場だったノモンハン-ハルハ河一帯は外蒙古領とする)」であった(注5)。これなら、戦争そのものが全くの無駄だったことになるから、この戦争で戦死傷した一万数千名は無駄死・無駄傷だったことになる。だが、この事実を真剣に悩んだ動きは、関東軍司令部にも参謀本部にも陸軍省にも、見受けられない。対ソ戦争に全面的に負けることを初めから了解していたことは、これだけでも明白だろう。  

 最終的な国境確定は、1941年10月にずれ込んだが、基本的には、二年前の東郷/モロトフ停戦合意と変化はない。問題はここだ。停戦合意から大きく逸脱することなど出来ないにしても、此の最終合意に関して陸軍のどこからも「悔しい」という声が一切ない情況は、何を物語るのか。陸軍トップの全体は関東軍を含め、「ノモンハン戦争を全く不必要な戦争だった」「国境はソ連・蒙古の主張が、初めから正しかった」と考えていた。これは、陸軍トップの全体は、暗に「ノモンハン戦争=ソ連スターリンに捧げた戦争」を事前に十全に了知・了解していたことにならないか。

第三節 「対支戦争を即時停戦せよ」の“天の声”だったノモンハン戦争を揉み消した帝国陸軍──ノモンハン戦争が解き明かす、日本が自殺の三正面作戦に突き進んだ謎

 ノモンハン戦争は、大東亜戦争軍事史研究の中で最も重視すべき戦争である。理由は、ノモンハン戦争が1945年8月の満洲樺太・千島・択捉・国後・朝鮮半島北部へのソ連侵略の序曲第二次日露戦争の前哨戦争だったからだけではない。  

 第一の理由は、こういうことだ。全面戦争するなら一正面(対ソ戦)に集中限定し二正面 (対ソ戦+対支那戦)を避けるのは常套兵法。だが、日本は、惨澹たる大敗北が確実になる二正面を続行するばかりか、“地獄直行の三正面戦争”を自ら選択した。「対支那戦争日中戦争/対英米の太平洋戦争/第二次日露戦争」という三つの戦争(正面)から構成される、“祖国反逆の大東亜戦争“である。なぜだろうか。この疑問を明らかにしてくれるすべての鍵が、ノモンハン戦争に隠されている。ノモンハン戦争を解き明かせば、大東亜戦争の真実が自ずから解明される。

 一方、第二次世界大戦の勝者であるスターリンは、ソ連がドイツと日本に挟撃される地理にありながら、その六年間の第二次世界大戦中、一正面戦争に固執し続けた。だから、勝者となったし、第二次世界大戦(領土を含め)戦利品のほぼすべてを、ソ連一国が独占したのである。

 欧州のポーランドフィンランドバルト三国へのソ連の侵略開始は、東のノモンハン戦争終結(1939年9月16日)の翌日(同年9月17日)からだった。ソ連満洲等への侵略開始の1945年8月9日は、ナチ・ドイツの降伏(同年5月7日)から三ヶ月が経っていた。一正面戦争に拘ったソ連とは真逆に、日本は三正面戦争という放漫・出鱈目戦争に現を抜かした。これだけでも大勝利するか大敗北するかの、第二次世界大戦の結末は自ずから定まっていた。

 第二の理由は、戦場が満蒙国境に限定され四ヶ月間という短期日だった“限定戦争 limited war”ノモンハン戦争は、八年間に及ぶ巨大に広域な“全面戦争 total war”大東亜戦争を、何から何まで相似形に縮小した戦争であった。すなわち、ノモンハン戦争を知る者だけが、大東亜戦争を知ることができる。「ノモンハン戦争を知らずして、大東亜戦争を語る勿れ」である。

スターリンが命じた大東亜戦争ノモンハン戦争  

 ノモンハン戦争も大東亜戦争も、何れも、スターリン/ベリヤの指揮下での戦争だった。何れも日本の国籍をもつロシア工作員共産主義者たちが決行した“祖国日本に叛逆する戦争だし、実に酷似する瓜二つの相似形双生児だった。それは①開戦経過が、瓜二つの相似形双生児だっただけではない。②何れの戦争後も、戦争の真実・真相が暴かれないよう、徹底した情報統制(検閲)/偽情報キャンペーンがなされた瓜二つの相似形双生児であった。         

表1;戦争後の当事者(=ソ連工作員の嘘キャンペーン(ほんの一部) 

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表2;戦争後の背後不審の偽情報洗脳キャンペーン(ほんの一部)

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日本人捕虜に対する残虐な殺戮(=口封じ)を敢行した“悪魔の赤い陸軍” ──スターリン命令の“世紀の祖国叛逆戦争”でないならば、必要だったか!  

 ノモンハン戦争が、日本が自主的に行動した戦争では無いことは、この戦争後に、ノモンハン戦争の真実を陸軍の全体および国民が知ることがないように徹底的に情報統制したことでわかる。しかも、この情報統制の方法は、常軌を逸していて、「ノモンハン戦争で生還した日本軍の将兵は原則的には皆殺しに相当する措置を執れ!」という血腥い方針だった。  

 この意味で、ノモンハン戦争は、日本の男児を無制限に殺戮して、ソ連軍が対日侵攻したときソ連軍様が無傷で日本占領ができる”ようにする悪魔の大東亜戦争の正体を垣間見せた。レーニン/スターリンが自国民を六千六百万人殺戮したが、近衛文麿であれ辻政信であれ小松原道太郎であれ、このスターリンに習って民族の伝統と慣習をもつ日本人を殺戮することが“理想の共産国家”「新日本」建設への第一歩と考えていた。

 ヒトラーユダヤ人殺戮は、陸軍の諜報機関を通じてそれなりに日本でも知られており、樋口季一郎杉原千畝のようにこれに同情する日本人はいたが、これを咎める日本人は全くいなかった。ヒトラーユダヤ人殺戮と同じく、共産主義のみが主導していた“真赤な日本陸軍”は、参謀本部を筆頭に、徹底した日本人殺戮を計画していた。1944年秋頃から盛んに煽動され始めた“一億玉砕”は、日本型に改造された“変形ガス室殺戮”で、それ以外ではなかった。昭和天皇だけが、“一億玉砕”を粉砕するタイミングと方策に日夜ご腐心されておられた。昭和天皇の御存在こそ、暗黒の大東亜戦争の最中にあって、自国損傷にひた走る狂気の日本を照らす一条の光明であった。

ロシアはノモンハン戦争につき、今も「対日」偽情報工作をやめてはいない  

 さて、ノモンハン戦争でソ連軍の捕虜となった日本の将兵は、当時から三~四千名と言われてきた(注1)。公刊戦史は狡猾で、このほとんどを「戦死者」に潜ませ、「行方不明者数=ほぼ捕虜数」を「1021名」としている(注2)。同時にこの公刊戦史は、ソ連側から受領した捕虜は、「第1次88名+第2次116名=204名」(注2)としている。とすると、関東軍参謀部&大本営陸軍参謀本部ソ連からの日本人捕虜の受け取りを拒絶した数とソ連が送還しなかった日本人捕虜の数の総計は、「1021-204=817名」となる。  

 この「817名」は、「三~四千名」に比すれば僅少ともいえるが、公刊戦史がこの「817名」について一字も書かないのは、真相をかなり知っているが故に、それを隠蔽した証左である。このソ連残留/遺棄の日本人将兵について、田中克彦朝日新聞(札付きの「ロシア人」白井久也や石川巌らが実行委員)と結託してロシアの対日偽情報工作のために開催したシンポジウムで、KGB第一総局の対日工作員ワルターノフは、「日本人捕虜の総数は約150人を上回ったことはなく…」(注3)と、真っ赤な嘘数字をべらべらと喋りまくった。これは逆に、ソ連残留/遺棄の日本人将兵数が半端な数字でないことを示唆するものであろう。  

 なお、私は、1982年の頃、アメリカ国防省の関係者から、「ソ連は、ノモンハンで日本の関東軍が受け取りを拒否した日本人捕虜800名ほどを外界と隔離した特別村に囲い、沿海州から若い朝鮮人女性を強制連行して結婚させ、(日本人と見分けのつかない)その子供や孫を対日侵攻時の特殊潜入工作部隊の精鋭兵士に訓練し部隊編制をしている。この部隊は、北海道や新潟に侵攻する前、潜水艦その他から上陸して偵察・サボタージュ・暗殺などの諸作戦を遂行する」との説明を受けたことがある。この部隊こそ、いわゆる「対日用スぺツナズ」で、GRUの管轄下にある。

自決と海外戦場盥回しの、準・死刑判決の帰還捕虜への残忍──勇猛果敢な戦闘を賞詞せず、スターリンに貢献したか否かが評価基準だった帝国陸軍  

 公刊戦史はまた、上述の帰還捕虜「204名」について一切書いていない。都合が悪い戦史には蓋をする防衛省防衛研究所戦史部の歴史改竄は、彼らが朝日新聞社と遜色のない嘘歴史つくりに精を出したことを露わにしている。『七師団 ノモンハンの死闘』に、目撃したある憲兵の回想記があり、関東軍司令部の悪逆な非人間性を告発している。    

(1940年4月27日の第2次送還の116名は、吉林に近い新站陸軍病院に収容された。急ごしらえの拘置所に改造された、この)陸軍病院は、駅から2キロくらい、付近には一般の建造物はなく、庭なども荒れて、空き家同然だった。病院勤務者はどこかに移されたらしい。ここの入監者は半死の状態で、投薬も看護も行き届いているとは思われなかった。あまり苦しむので衛生兵に〈少し見てやったらどうか〉と言ったが、ただ黙って首を横に振るだけだった」

「半月も過ぎた頃、関東軍司令部から将校を長とする特設軍法会議が乗り込んできて、非公開で、主に将校が裁判に付された。午前十時から午後四時頃までで終わった。その場にいあわせた憲兵の話では、裁判官は終了後、将校に拳銃を与え、何にも言わずにさっさと引き揚げたという。その直後、憲兵といえども将校室に近寄ることを禁ずとの命令が出、間もなく拳銃音が響いた。自決だった」(注4)

 戦場で勇猛果敢に戦闘し、負傷その他にやむを得ない事情で図らずも敵に捕虜になった勇者をかくも非道に扱う、武士道にも違背する残忍な処置を関東軍がとったのは、「陸軍次官・山脇正隆の通達」(1939年9月30日)が下達されたからでもある。これは、畑俊六・陸軍大臣が強く指示したもので、畑の作品と言ってもよい。この通達によって、捕虜帰還の将校は「自決」、下士官兵には陸軍刑法第七十五条の「敵前逃亡罪」が適用されることになった。  

 畑俊六については誤解があるが、その本性は峻烈残忍で、昭和天皇の前で見せる人格篤実は演技で、猫かぶりであった。「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な東条英機の『戦陣訓』は1941年1月の示達だが、これは一年半前に畑俊六が考案したものである。  

 畑俊六自身は共産主義者でなかったが、共産主義者でソ連工作員の松谷誠を特段に信頼していた。会津藩士を父に持つ畑は、薩長藩閥の明治政府とその末裔の帝国陸軍への憎悪は尋常ではなく、その将兵を殺戮し尽くしたいとの異常な怨念にとり憑かれていた。

 話を戻す。ノモンハン戦争後の人事は、図らずも、帝国陸軍中枢の人事が、スターリンの世界戦略やアジア共産化に貢献したか否かが評価基準だったことを露呈した。ソ連軍と勇猛に戦った戦士は拳銃自殺を強制されたが、スターリンの命令に忠実に“日本軍の大敗北”演劇を企画し命令した赤い関東軍参謀は大出世したからである。  

 服部卓四郎はノモンハンの責任を取ったかの偽装として歩兵学校教官に飛ばされたが、大佐最高ポストである参謀本部作戦課長に返り咲いた。小松原と並んで日本軍大敗北=日本将兵の過剰な大量戦死戦傷の“主犯的狂犬”辻政信は、銃殺刑にもならない免官にもならない予備役(退官)にもならず、形だけの冷や飯を支那戦線の第十一軍司令部付で過ごした後、服部と同じく参謀本部作戦課に抜擢された。  

 服部/辻が参謀本部作戦課にいなければ、陸軍は海軍が前のめりになった太平洋戦争に賛成しなかった可能性は決して低くはない。  

 「ノモンハン戦争」は、どうでもいい無価値な未画定国境であり日本人の誰が見ても不必要な戦争だった。また、戦場を“未画定国境”ノモンハンを少し後退して「将軍廟」より以東におびきだせば四分の一の兵力でも互角に戦えて敗北とは無縁であった。だのに、辻の作戦指揮は何から何まで真逆だった。しかも意図的にそうした可能性すら垣間見せていた。ならば、最低でも予備役、常識的には免官が、“軍人不適合の狂人”辻政信に下されるべき適切な処分だったろう。  

 だが、参謀本部内で、辻を頑強に庇ったのがいる。それが参謀本部総務部長の神田正種で、陸軍内の共産主義者細胞のリーダー格であった。帝国陸軍は、1939年時点、共産主義者やソ連工作員でなければ出世できない人事システムが完成しつつあった。教条的なコミュニスト池田純久/鈴木貞一らのスターリン万歳『陸軍パンフレット』が公然と公表されたのが1934年だったから、それから五年、充分にありうる事態ではないか。  

 「ノモンハン戦争」の敗北は、「日本が(対支那戦争との)二正面を避けるべく、対蒋介石日中戦争を即時停戦せよ」を告げる最後の“天の声”でもあった。が、陸軍のトップや中枢のエリートで、これを声に出すものは既に誰もいなかった。日本は、このように“ソ連軍の下部機関”となった赤い帝国陸軍ハーメルン魔笛に理性を奪われて、自国破壊の東アジア共産化革命としての大東亜戦争をさらに対英米開戦へと推し進めた。戦前・戦中期日本の狂気の度は、ノモンハン戦争を境に、さらに一段とひどくなったのである。  

 

第一節

1、有害なスーパー毒書には、高山信武『服部卓四郎と辻政信』扶桑書房出版(1980年)辻政信ノモンハン秘史』毎日ワンズ(2009年)など。後者のトンデモ「本書に寄せて(序文)」を書いたのは、西尾幹二の親しい友人である福井雄三。

2、2012年出版の、アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦』は、チャーチルリデル・ハートの本が手にしにくい昨今において、それらに代わるものとして手離しで推薦できる。邦訳は、『第二次世界大戦 1939-45』全三巻、白水社

3、『関東軍1』や辻の『ノモンハン』に次ぐ、嘔吐を催す当事者の回想記は、小松原師団長に仕えた参謀長・扇廣が書いた『私評 ノモンハン』であろうか。これほどの自己弁護のダーティさは虫唾が走った。

4、ゴールドマン『ノモンハン1939』、みすず書房、第六章。

5、『ノモンハンの死闘』、北海タイムス、161頁。

 

第二節  

1、秦郁彦『明と暗のノモンハン戦史』、PHP研究所、39頁。  

2、戦史叢書『関東軍Ⅰ』、424~5頁。

3、「関東軍機密作戦日誌別紙」『現代史資料 10』、みすず書房、107頁。

4、Hiroaki Kuromiya,“The Mystery of NOMONHAN 1939”,SLAVI MILITARY STUDIES,2011.

5、東郷茂典『時代の一面』,原書房、140頁。外務省欧亜局第一課ソ連課)『日ソ交渉史』、巖南堂、517~540頁。最終の国境画定は、1941年10月15日に、実際には日ソ間の外交交渉合意だが、形式的には満洲国と外蒙古間で合意に至った。これは、北川四郎『ノモンハン』、中公文庫、164~193頁、を参照の事。

 

第三節  

1、北川四郎『ノモンハン』、中公文庫、160頁。

2、『関東軍1』、713頁、730頁。

3、田中克彦ノモンハン・ハルハ河戦争』、原書房、153頁。

4、三田真弘編『七師団戦記 ノモンハンの死闘』、北海タイムス、1965年、491〜2頁。

 

附記 GHQの「市販禁止図書」没収は、歴史の隠蔽か、嘘歴史の洗浄か  

 民族系とは、無学・無教養な煽動家やペテン師評論家を核に群れる一種のカルト宗教団体である。当然、その存在は日本国民から正しい歴史や歴史の真実を剥奪し、誤謬はなはだしい改竄歴史を日本人に洗脳的に刷り込もうとする異様な非・日本人である。この典型は、GHQが戦前・戦中出版の数千冊の書籍を「市販禁止」とし、市販されていれば「没収する」と指示したことがあるが、なぜか民族系はこれをさもGHQ=米国が「日本国民から正しい歴史を奪うものだ」「これこそ【焚書】だ」と大騒ぎする。

 なんとも恥ずかしいバカ騒ぎであることか。なぜなら、これらの本で図書館や自宅にあるものは一冊も没収されておらず、これらの本を読もうと思って読めなかったケ-スは一件もない。“市販された本に限っての没収”で、現実にはGHQが研究のために五冊づつ米国に送ったものが、没収された全てだったともいえる。  

 このことを、ノモンハン戦争に関連する書籍で明らかにしておこう。「ノモンハン」を表題に使う本は、次の七冊。   

1、『ノモンハンの戦蹟を視察して』、1940年9月。   

2、『撃墜 ノモンハン空中実戦記』、1942年3月。   

3、『ノモンハン事件小戦例集』、1941年4月。   

4、『ノモンハン実戦記』、1940年9月。   

5、『続 ノモンハン実戦記』、1941年5月。   

6、『ノロ高地 ノモンハン戦車殲滅戦記』、1941年2月。   

7、『鉄か肉か ノモンハン戦秘史』、1940年7月。

 このうち、2、4、5、6の四冊はキワモノの有害図書。読めば真っ赤な嘘ノモンハン戦史が頭に注入されるから、存在しない方が好ましい。が。残りの三冊も、ノモンハン戦争とは何だったかを知る上では、全くもって何ら必要でない役に立たない無害無益な本。  

 歴史は、過ぎ去った後に、その真実がくっきりと浮かび上がってくる。また、歴史の真実を探る歴史研究は並みの努力や並みの知見・IQで到達できるものではない。“反日”本に種分けされるべき戦意高揚の戦時嘘宣伝本をもって、同時代の歴史の真実を語る最高の歴史文書だとうそぶく、分裂病で脳内腐敗が進む西尾幹二が恍惚と書きまくる『GHQ焚書図書開封』などは、日本国の存続を毀損・腐蝕する猛毒書の筆頭でなくて何であろう。  

 序に、ノモンハン戦争という歴史を正しく知るための一般の方の入門的回想記を二冊挙げるならば、『ノモンハンの死闘』(1965年)と『陸軍中将土井明夫伝』(1980年)であろう。いずれも戦後の出版物で、GHQの市販禁止の対象になる戦時に出版されたものではない。 GHQの市販禁止は、嗤えば済む何とも馬鹿げた愚策で、日本国にとって全くの無害の愚行。

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