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中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

“ガラパゴスの赤い奇獣”長谷部恭男の“逆・憲法学”

長谷部恭男の“逆・憲法学”

──警官の制服を着た強盗が「強盗を捕まえろ!」と大声で騒ぐに同じく、“反・立憲主義者”は、「立憲主義!」を連呼する

 

筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

 

 日本の憲法学界が赤色一色となった特性はつとに「衆知」だし、多くの人が指摘しているから、この事実は聞き飽きた読者も多いだろう。しかし、不可思議なことに、憲法学者に関するもう一つの特性は、本郷のキャンパスを始め多くの大学で数十年にわたる永年の常識となっている話なのに、なぜか大学外では「衆知」ではない。検閲的な情報操作がなされたようだ。

 日本の憲法学者に関する「第二の衆知」とは何か。全国すべての憲法学者が、劣等生ばかりという事実である。ここで取り上げる長谷部恭男もまた、東大法学部の550名の中500番で卒業した“見事な劣等生”。(私が1963年に「駒場」の東大理一(=旧制第一高等学校の理科)に入学した頃)東大アホウ科」だと蔑まれたにせよ、プライドだけは高い東大法学部全体にとって、“オソマツ東大法科卒”長谷部恭男が大学教授として活躍するとは、自ら信用と評価を低下せしめる!と眉を顰める思いだろう。 

 こんな劣等生の長谷部恭男の“憲法学もどき”の「憲法漫談」を批判するのは、私も大いにプライドが傷つきかなり忸怩として気が重いが、日本国のために我慢しよう。紙幅の関係でサワリしかできないが、“逆さ憲法学”と言うか、“反・憲法学”と言うか、長谷部恭男の“有害な珍・憲法学”に、手短だが外科手術的なメスを入れる。

カルト宗教団体化した日本の憲法学界は、ガラパゴス島の動物に(逆相的に)酷似する“赤い奇獣の学者たち”が狂気に群れて、退化・劣化し続ける棲息地

 日本人は、主要な有名大学の大学教授といえば、すべからく「一流学者二流学者三流学者」に分類されると思い込んでいる。だが、それは工学部、理学部、医学部など、理系の学部においてのみ妥当性のある常識。文系には全く通用しない。

 理系では、東大や京大などでは、iPS細胞の山中教授を誰でも思い出せるように若干名だがノーベル賞級の学者つまり一流学者が存在する。それ以外も概ね二、三流学者に分類できる。これらの大学の大学教授で「四流以下」は僅かしかいない。

 だが、文系の大学教授となると、全くの逆情況。日本の文系大学教授は、国際的に絶望的なレベルにあって、「三流学者以上」が僅かにいるにはいるが、実情はほとんどが「四流以下」。

例えば、経済学などではときたま世界的に名が通る「二流学者」がいる。が、これなど例外。憲法学では「一流学者二流学者三流学者」は一名もいない。つまり憲法学のジャンルでの大学教授は須らく全員が、「四流学者五流学者六流学者非・学者」のいずれかである。

 戦後七十年を振り返り具体的な名前で例示すれば、「ケルゼン系の宮澤俊義が四流学者カール・シュミット系の樋口陽一が五流学者、宮澤と樋口とを雑ぜた出来損ない長谷部恭男が六流学者」である。この憲法学が好例であるように、日本の大学の文系は、私立大学を含めて学部規模を全体で七割ほど廃校や大削減をしない限り、その質的改善は全く不可能な、劣悪と頽廃の極にある。

 特に、文系では大学院学生の定員数を現在の一割(=九割カット)にしないと、世界標準ではなく世間一般の常識的期待値水準ですらその質を維持されない。文系大学院の学生の質は、理系大学院とは逆に、その九割が就職に失敗したり精神疾患があったり共産党員活動家であったり、学部学生の劣等生ばかりが吹き溜まる“赤いドブ池”と化している。

 すなわち、現在の日本の文系大学院学生の九割を円満退学処理する大リストラを直ちに断行をしないとすれば、世界中が蔑視し嘲笑する日本の文系大学院の“愚者と痴者の楽園”情況は是正されえない。大学院学生の定員数を九割削減し、学部学生数も三割カットすれば、教員も自ずから七割近くを削減できる。“極赤の劣悪教授”長谷部恭男は、確実に馘首される。

 話を戻し東大で言えば、学部学生の上位一割はIQが高く知識量も豊かだから、授業を聴く合間に、自分達よりレベルの低いほとんどの東大教授を見下して評価するのが教室での日課である。「この教師は、赤い、白い」の思想チェック以前に、「この教師は、頭が良い、悪い」とか、「知識が、ある/ない」「知識が、正確/不正確」などで点数をつけ、静かに楽しんでいる。

 東大法学部の憲法学や政治学の教授たちとは、これらトップクラスの学生の足元にも及ばぬ“アホバカ東大卒”だから、苦笑と蔑視の対象でしかない。事実、ほとんどは450番から550番のクズ東大卒。このため、優秀な東大生は、「憲法学の教官のもとに弟子入り」など万が一にも希望しないし、発想すらしない。

 だから、憲法学を専攻した東大生は、全員がすべて格段に劣等生のクズ学生。しかも真赤な極左学生。例外は、過去七十年間で、一人もいない。かくして憲法学の教官は、宮澤俊義以来、“赤いバカ”が再生産される世代継承の悪循環が固定した。芦部信喜に弟子入りした長谷部恭男もまた、芦部同様、この「東大アホウ科の劣等生」が再生産された好例である。

 以上は、本稿で申し上げたい論点の前菜。さて、これからが主菜。

 日本の憲法学界は、極めて特殊な世界を形成している。なぜなら、通常「蛸壺学界」とも称されるが、正しくはガラパゴス諸島の動物と同じく、外界と完全に絶縁した“特殊な集団サークル=カルト宗教団体”に化しているからだ。

 かくして、日本の憲法学界では、どんな間違いであろうと、どんな珍説・奇説であろうと、“絶海の孤島”や宗教団体のサティアンと同一だから、皆で談合して褒めあうのをルールとする。つまり、致命的な間違いを犯した謬説も、珍説・奇説も、暴力団の内部組織と同じく、「学問」に扱う“悪事の取極め”が厳しく守られている。非・学問的/反・学問的な“異常な学界”、それが日本の憲法学界の実情である。

 別な視点で言えば、学界内部での相互批判を禁止している上に、国際法など、外部の隣接ジャンル学界からの“批判=知の交流”も慣行的に禁止している。だから、憲法第九条に関して、ハチャメチャな謬説・妄論・狂説が、憲法学界の主流となった。そもそも憲法第九条は、国際法の学問ジャンルに属するもの。国際法をいっさい知らないバカアホ憲法学者が、本来的には決して関知してはならない条文である。

 こんな異常で異様な憲法学界は一般通念上の学界ではない。実態は、カルト宗教団体の教団内部での集会。だから、あえて学界の二文字をつけるなら“ガラパゴス学界”と称するほかない。ならば、日本の憲法学者とはガラパゴスで再生産された奇獣”。しかも、その99%はコミュニストナチスト/マルキスト。彼らはまさしくガラパゴスの赤い奇獣”以外の何物でもない。

 なお、ダーウィンガラパゴス諸島の動物に「進化」を見た。が、日本の憲法学界は、これとは逆で、「退化」と「劣化」の度合いを加速している。憲法学界が棲息する「日本版ガラパゴス」は、“逆相のガラパゴス”である。日本の憲法学者とは、より正確には、“逆相のガラパゴスで劣化し続ける赤い奇獣たち”と定義すべきか。

第一節 “立憲主義”の全面破壊を狙う長谷部の本業は凶悪革命家

 長谷部恭男の主著は、『憲法の理性』(2006年)と『比較不能な価値の迷路』(2000年)であろうか。このタイトルが示唆するように、長谷部恭男は、児童文学の小説家が本職かも知れない。なぜなら、例えば、意味不明なタイトル『憲法の理性』は、最初に和製英語Constitutional Reasonを造語した後に、これを「和訳した?」という。

 笑止とはこのようなこと。和製英語は日本語だから和訳はできない。こんな奇奇怪怪で意味不明な“英語もどき”は、英国にも米国にも存在しない。つまり、アルファベットで表記された英語風日本語「Constitutional Reason」は長谷部の珍語。漢字に置換した「憲法の理性」も長谷部の珍語。それ以外ではあるまい。

 しかも、長谷部流の造語『憲法の理性』とは「憲法が理性を持つ」とか「憲法が理性を発揮する」とかの意だから、それは憲法という国家の“最高位の法律”を擬人化して、人間と同列化している。これは、「憲法は、人間同様に理性をもつ」とするものだから、「ゾウさんやカバさんが花子ちゃんや太郎君と会話している」童話と同じく、象や河馬に人間の言葉を話させる擬人化の表現方法を模倣したもの。

 要するに、長谷部恭男は、大学人が遵守すべき創作不可の学術用語と、幼稚園児用の児童文学における創作こそ命の文学表現との区別・差別ができない。法律学上の学術用語を正しく使用できない長谷部恭男は、レッドカードで永久退場させられているサッカー選手以下の、学者の失格者。

 『憲法の理性』であれ、その他の長谷部の著作であれ、長谷部恭男とは過激な反・立憲主義者。日本国から立憲主義を全面破壊し完全剥奪することを、大学教授というポストにおいて達成せんとする革命家である。暴力革命の煽動はしていないが、日本国の共産化を目標としている以上、それは秘めているだけだろう。しかも、共産革命は、暴力革命よりも“長谷部的な非暴力革命”の方が遥に怖い。多くの日本人は、緩やかに穏やかに徐々に共産社会化する革命方式を危険視しないからである。痛みもない緩やかな悪性癌は永年放置するので、むしろ治癒不能の死を齎す。これと同じ。

立憲主義破壊の教祖イデオローグ”ルソーやホッブスを崇拝する長谷部恭男

 「立憲主義母国」英国は、立憲主義を擁護すべく、ホッブスの排除とルソーの排撃に全力をあげた。英国は、この思想戦に勝利し立憲主義の擁護に成功した。が、立憲主義は十八世紀末を最後に、十九世紀以降は衰退の一途を辿っている。この十八世紀末までの歴史を掻い摘んでおく。

 まず、ホッブス排除の偉大な哲学者は、言うまでも無くデービッド・ヒューム。ルソー排撃は、「第二のキケロ」とも言われる、人類史上もっともIQが高い“不世出の哲人”エドマンド・バーク。バークこそは、ルソーを始祖とする反・立憲主義の精華たる人類最初の全体主義フランスのジャコバン党独裁体制とその思想を排撃して、英国の“立憲主義=自由の擁護”を完遂した、世界史上の偉大な政治家でもあった。

 ヒュームも、“極左ホッブスを穏健化した鵺的な“半・左翼”ジョン・ロックの本性を見抜き、ロック排斥の明晰な批判を展開した。このヒュームを継承して、反ホッブス/反ロックで、大著『イギリス法釈義』を書き上げたのが“第二のコーク”ブラックストーンブラックストーンは、十八世紀に揺らぎ始めた立憲主義を守らんとした巨岩のような“英国立憲主義不動明王”だった。立憲主義の理論化を成し遂げた天才で大裁判官エドワード・コーク卿の憲法思想が大西洋を渡って米国憲法の根幹となったが、この宅急便の役を担ったのもブラックストーンであった。

 そして英国の立憲主義を相続した嫡男・米国は、「コーク→ブラックストーン→アレグザンダー・ハミルトン(実質的筆頭の〈米国建国の父〉)ジョン・マーシャル(初代連邦最高裁判所長官」の系譜で、アングロ・サクソン固有の立憲主義をその後百年にわたり米国の憲法思想の基軸に据えた。

 確かに、米国の立憲主義も1890~1910年に急速に衰退を開始した。が、1890年まで、米国の立憲主義が堅固だったのは、コークブラックストーンを継承する、偉大な米国人アレグザンダー・ハミルトンジョン・マーシャルジョセフ・ストーリたちのお蔭である。

 だが、事実は何であれすべて歪曲しひたすら改竄と創作で論を進める、赤色革命家で怪奇児童文学の作家・長谷部恭男は、『憲法の理性』を、卒倒するほかない嘘、嘘、嘘ばかりを無限回数繰り返す手口で書いている。学術的に正しく記述した部分は、身の毛もよだつ狂本『憲法の理性』の全221頁のうち、一頁も一行すらも無い。

 “バカ以下の白痴集団”と化した自民党国会議員四百名はもちろんだが、今では東大法学部の大半の学生も、『憲法の理性』『比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論(=価値相対主義バンザイ!論)』『Interactive憲法』などの雑本類を読み、〈かなり赤いな!〉ぐらいは認識するが、長谷部恭男とは何と過激な「反・立憲主義」でキワモノ“逆・憲法学者”だと正しく評価することができない。日本人全体から立憲主義と反・立憲主義とを区別する初歩的な知見が剥奪されたのである。日本人は知と学を喪失し、野蛮人へと退化している。

 オウム真理教サティアンと同じく、日本国民は、ルソー原理主義で右翼偽装の“極左上杉慎吉に始まりすでに百年以上、憲法に関する最小限の正しい基礎知識が剥奪されてきた。しかも、いったん空白となった正しい憲法知見のところは、代わりに“決定的な嘘憲法論=転倒した謬説憲法論”が洗脳的に刷り込まれ埋められている。

 例えば、独裁者による全体主義体制を史上初に考案した、人類史上、最悪最凶の“反・立憲主義者”ルソーについて、そう正確に教わる事は、日本では決してない。それどころか、小学校からの日本の学校教科書や出版物においては、中川八洋の著作を唯一つの例外として、重度の精神分裂症のため野良猫と人間の識別ができず五人の子供を生れると直ぐ遺棄したルソーを、また「独裁者は恣意的に人間を大量殺戮できる」との悪魔の教理を考案したルソーを、素晴らしい哲学者・教育思想家だと、青酸カリの固まりをダイヤモンドだと詐称するに等しい真赤な嘘ばかりが記述されている。

 要は、日本においては、思想を扱う学問ジャンル「憲法学社会学/哲学…」は、真赤な嘘だけを記述して、正しい基本知見を日本人から剥奪するのを目的としている。だが、狂気だけが乱舞する憲法学界や哲学・現代思想学界の惨状を直視する、良識ある憂国の日本人は一人もいない。

 日本国が「アルマゲドン狂の麻原彰晃が大量に大学教授になっている」現実を憂う、真正の愛国心ある日本人は、とうとう私独りになってしまった。日本国とは、亡国に向って一直線に末期的驀進をしている。

反・立憲主義者と立憲主義者の名前を隠蔽する、詐欺師ばかりの憲法学者

 話を長谷部恭男に戻す。長谷部が立憲主義が不在の、独裁者による全体主義体制”を志向している事は、もし一般日本人に表1の常識があれば簡単に認識できたはず。表1については後で説明する。が、まず頭に叩き込んでいただきたい。

 

表1;主要な立憲主義者と主要な反・立憲主義者/理論

反・立憲主義

半・反立憲主義

立憲主義

ホッブス

ルソー

リチャード・プライス

ベンサム

カール・シュミット

ハンス・ケルゼン

社会契約論

価値相対主義

実証主義(人定法主義)

命令法学

ナチズム

マルクス・レーニン主義

ジョン・ロールズ

ドウォーキン

ジョン・ロック

ブラクトン

エドワード・コーク

マッシュー・ヘイル

デービッド・ヒューム

ウィリアム・ペイリー

ブラックストーン

エドマンド・バーク

アレグザンダー・ハミルトン

ジョン・マーシャル

ジョセフ・ストーリ

ジェームス・ケント

ダニエル・ウェブスター

フォン・ハイエク

 

 長谷部の正体は、立憲主義を全否定するホッブスの崇拝者で、「反立憲主義の教祖」ルソー教の信徒である。表1の左側にリストした反・立憲主義者の哲学者や思想ばかりが、『憲法の理性』『比較不能な価値の迷路』の中で、執拗に何度も何度も顔を出す。それなのに、長谷部は、“立憲主義”という言葉を振り回す。

 ということは、長谷部は、“立憲主義”を日本から完全破壊的に一掃するために、意識して「反・立憲主義」を百八十度逆の“立憲主義”の言葉に置換している。共産革命のために学生を煽動し洗脳する、いわゆる“騙す”には最高に確実な方法は「転倒語法」だが、長谷部恭男は、この名人なのだ。ゲッベルス顔負けのプロパガンダ戦術を駆使する長谷部とは、「学者」の衣を着たあくどい共産革命運動家ということか。

 「転倒語法」とは、スペイン内戦で共産政府側に加担したジョージ・オーウェル共産主義者の言語が「戦争は平和である」とするように、必ずすべて逆さに置換されている事に気付き「ニュー・スピークス」と命名したが、この邦訳語である。

 ホッブス崇拝の故に長谷部の『憲法の理性』第2章は、「ホッブスを読むルソー」が副タイトル。そこで長谷部は、ホッブスの毒性を無限大に濃縮した“世紀の狂人”ルソーを神格化して、その狂妄きわめる魔説を礼讃して拝跪する。

 この解剖をする予定だが、その前に、『比較不能な価値の迷路』でホッブス礼讃をする、ペテン師型プロパガンダ術を駆使する長谷部の騙し手法を垣間見ておこう。余りの嘘八百さと鉄面皮的改竄に、読者は卒倒する準備をしておいて欲しい。

「コモン・ローの実証的理解は、ホッブスに遡ることができる」(注1)。

 ホッブスとは、「法は独裁者の立法(命令)であるべきだ」と考えた男。つまり、「法の支配」は破壊されねばならず、「人による支配」が政治の根幹であるべきと主張した。まさにホッブスとは、コモン・ローを全否定した独裁者主義極左思想家。こんな事は、英国でも世界の学者の間でも“常識中の常識”。米国は対応がもっと明瞭で、ホッブスを読むものを狂人か国家/教会への反逆者とみなす。実際に、米国では、植民を開始した建国以前から、ホッブスを読むものは現在に至る数百年間にわたりゼロ名。

 だが、“刑法犯罪の詐欺師”レベルでの“嘘つき”長谷部恭男は、上記引用文を、ホッブスの『対話』(注2、1681年刊)だけから結論づけた。しかし、ホッブスの『対話』は、コーク卿とコーク卿を継ぐコモン・ローの法曹家を滅多矢鱈に誹謗し罵倒するだけのもの。コモン・ローを「実証した」部分など、一行もない。

 しかも、『対話』は、ホッブスの“コモン・ロー不理解と破壊”の決定的証拠となり、英国の学的エリートの職業であるコモン・ロー裁判官たちから無言の総反撃をされて、ホッブスは没後百年以上にわたり叩き潰され消えた。この死んだはずのホッブスを墓場から蘇えらせたのが、十九世紀初頭の“英国全体主義の教祖”ベンサムだった。

 上記引用文のような、長谷部恭男の事実を逆さにしたホッブス嘘話と英国コモン・ロー史の大改竄は、長谷部が妄想逞しい童話作家なのを改めて確定する。上記引用文に続く、次のような長谷部の真赤な嘘創り話を読むと、STAP細胞を捏造した小保方晴子氏が正直者に見えてくる。

ホッブスは、コモン・ローを理性と同一視するクックの考え方が…誰もが自らの主観的な判断で法への抵抗を正当化できることになり、万人の万人に対する争いをもたらすからである」(注1)。

 まず、些細な苦言。Coke卿のスペルで一目瞭然だが、これを「クック」と読むのは不可能(備考)。この誤発音は、長谷部がコーク卿の『英国法提要』全4巻や『判例集』全13巻を、読んだことも研究したことも全く無い、“コーク知らず”であることの決定的な証拠でもある。コーク研究をせずに「法の支配」や「立憲主義」を語るとは、長谷部恭男が、石ころやガラス玉を店頭に並べて「宝石店」だと詐称して直ぐに逮捕される田舎詐欺師と同種の悪徳ペテン師だということ。

(備考)コーク卿の妻は「伯爵夫人」の称号をもつが、夫のコーク卿を蛇蝎のごとく嫌い、家庭外で公然と「My Cook 私の料理人(クック)」と称した。そればかりか、手紙などで「Cookの妻」と書いたりした。これが当時のロンドン市中に広まり、一般庶民も“英国一の大裁判官”を「Sir Cookクック卿」と囃したてたのは歴史事実。コークを研究した、東京大学の伊藤正巳は「コーク」、大阪大学の石川幸三は「コウク」、愛知大学の酒井吉栄は「コーク」、御茶ノ水大学の井上茂は「コーク」と表記。「コウク」との表記もある。

 

 さて、ホッブスの『対話』を批判し徹底排撃した多くの裁判官のうち、マッシュー・へイルのホッブス批判の手稿が残っている(注3)。なのになぜ、長谷部は、ヘイルのホッブス批判を公平に論及せず、英国の裁判官全体から轟轟たる顰蹙を買った『対話』の方のみを真理だと結論づけるのだろうか。

 また、全世界の学者は一致してコモン・ローと言えばコーク卿のコモン・ロー思想を最高なものと考えるが、長谷部は、コーク卿のコモン・ロー思想につきコークの巨大な著作から一文どころか一語も言及しない。なぜか。長谷部が、過激な反コーク主義者で、反コモン・ロー主義者で、反「法の支配」主義者だからだ。

 序に助言しておく。影響ははるかに少なかったが質においてはコークを凌ぐと評されたヘイルのコモン・ロー概説書The History and Analysis of the Common Law of England,1713ぐらいは、長谷部よ、読んだらどうだ。私は年齢的にヘイル研究論文を出す機会はもはや無理となったから、もし読まれるならば私のを献本しよう。

国王(君主)や独裁者(クロムウェル)に阿諛する、卑劣でさもしい最低男ホッブス

 『リヴァイアサン(1651年)が、独裁者クロムウェルの独裁(1649~58年)の開始と同時に執筆されたように、それは独裁を擁護して独裁者クロムウェルの歓心を買うための阿諛の書であった。フィヒテがドイツに侵略してくるナポレオンに媚びて阿諛したのと同じ。ルソーを初め、極左哲学者には倫理が腐敗した人格低劣な輩が多い。そうだとすれば、『リヴァイアサン』の「国王」は「独裁者クロムウェル」と置き換えて読む方が判り易いといえよう。

 しかし『対話』は、王政復古後の1666年頃の作だから、その「国王」は「国王」と読む。デカルトを信奉する事実上のフランス人でもあったホッブスは、コーク卿やコモン・ロー裁判官を、次のように間違いだらけのデタラメ放言で罵倒した。

「イギリス法は、代々の国王が自らの理性のみで、あるいは貴族院庶民院に諮ってつくった。それ故、国王の理性こそ、コーク卿の言う【生ける法 anima legis】であり【普遍の法summa lex】である。裁判官の理性、学識、智慧によるのではない」

「わが国王は、制定法とコモン・ローの双方の立法者である。・・・・・国王は唯一の立法者である。唯一至高の裁判官である」(注2)。

 「国王は唯一の立法者」などホッブスの現実と乖離する妄説に、ヘイルは、①全くの誤謬、②自然の正義に背反する、③国家の統治を危殆に導く、④統治の共通善と安全とを破壊する、⑤ホッブス説を支持する法も理性も不在、だと反駁した。例えば、具体的にはこう言った。「法(コモン・ロー)はまた、多くのケースで国王の立法(制定法)を拘束し、国王の立法が法に反する場合には無効とする」、と(注3)。

 現実の英国の立法は、ヘイルのこの反駁通りであった。確かに、コモン・ローは国王より優位にある上位の法で、国王はコモン・ローに従うことを余儀なくされていた。つまり、「法が上位にあって、下位の勅令という法律制定の大権を持つ)国王を支配する」のだから、それこそまさに「法の支配」である。

 コークは『英国法提要』第二巻で、切々とコモン・ローへの崇敬と遵守を訴えた。

 この最高の知性での獅子吼「コモン・ローとは、国王大権/議会権力/裁判権力に対して、その上位にあって絶対優位する“古来からの国制・法制”の中枢的根幹である」において、コーク卿は、コモン・ローを永遠に「保守し続けよ」と訴えたのだった。

「この法(コモン・ロー)こそが(英国臣民の)権利である。それは臣民にとって最善の生得権である。なぜなら、それ(コモン・ロー)によって、臣民の財産、土地、妻、子供、身体、生命、名誉、評判が、危害や悪から保護される」

「イギリス王国のコモン・ローは決して猶予されてはならない。なぜなら、コモン・ローは、人間が求めることのできる最も確かな安全域であり、最も弱き人々を保護する最強の要塞でもある。コモン・ローの原則が変更されれば強奪や抑圧がそれによって生じる以上、コモン・ローのいかなる原則も基本的なポイントも揺さぶったり変更してはいけない」(注4)。

 この程度の簡略な知見を知るだけでも、長谷部が先述した「ホッブスは、コモン・ローを理性と同一視するクックの考え方が…」が、嘘つき童話作家らしい全くの創り話なのが判明する。

 第一の大嘘は、コーク卿は、コモン・ローを人間の理性と同一視しない。その反対である。人間の理性を完全に排斥するコモン・ロー故に、コモン・ロー尊崇論を理論化したのである。コモン・ローを、人智を超越した、神もしくは神以上の古来から英国臣民に付与され相続されてきた国制(Constitution)の要としての神秘なる法制(Law)と看做し、コモン・ローとは人間が自らの理性をもってつくった人為の法律(人定法、statute)とは対極的なものだとコーク卿は考えたのである。

 しかも、コモン・ローを理性と同一しているのはホッブスの方ではないか。悪に長け悪に生きる長谷部は、マジシャンのごとく、ホッブスとコーク卿とをさっと入れ替えている。「英国国王が理性でコモン・ローも制定法も立法した」と真赤な謬論を語っているのは、『対話』におけるホッブス自身の方ではないか。

 なお、コークが、コモン・ローを「理性の完全な完成形 absolute perfection of reason」とも表現したのは事実。だが、この“理性”は、デカルトの「理性」とは真逆。なぜならコーク卿は、「コモン・ローは、(当時の英国人が【理性法】と呼んでいた)ローマ法の自然法とも一体化したのだから“理性法の絶対完成形”ともいえるし、それによって慣習法以上の真理に昇華したのだ」と考え、こう表現した。すなわち、この「理性の完全な完成形 absolute perfection of reason」は、デカルトの「理性」を排除した、その様なものを超越して、その上位にあるという意味である。

 第二に、「誰もが自らの主観的な判断で法への抵抗を正当化できる」法律の恣意的立法と法律の恣意的改廃を志向した全体主義体制の『リヴァイアサン』の著者は、デカルトを座右の書としたホッブスである。なのに、長谷部恭男は『リヴァイアサン』の著者はコーク卿だと嘯く。こんな大嘘は、童話作家のフィクションであれ、許される範囲を越えている。

 ハイエクは、「道徳や宗教や法は、誰かが熟慮の上で構築した、そのような設計によるものと考えた」デカルト、そしてデカルトを継ぐホッブスとルソーらをもって、自由社会を破壊する「設計主義的理性主義 constructivist rationalism」として排撃した(注5)。このハイエク哲学の源流がコーク卿のコモン・ロー主義なのは、衆知のこと。

 長谷部恭男は、強盗を逮捕しようと強盗と揉みあう警官を指さして「強盗だ!」と叫んで強盗の逃走を助ける、犯罪者特有のロジックを展開している。凶暴な嘘つき革命家・長谷部恭男の怖ろしい正体は、もう明らかになっただろう。

ホッブスの『リヴァイアサン』を、ヒュームは「伝奇寓話の怪物談」と、クラレンドン伯爵は「危険で有害図書」と排撃し、オックスフォード大学は焚書に処した。

 ホッブスの『リヴァイアサン』の方は、『対話』以上に、英国全土で非難の大嵐となり、ホッブスの母校オックスフォード大学は焚書に処した。友人のクラレンドン伯爵(エドワード・ハイド)は、『危険で有害なリヴァイアサン』(注6)を出版した。

 ヒュームも、その主著『人間本性論』で、ホッブス排撃を行った。有名な箇所なのに、日本のヒューム研究者は意図的にこれに言及しない。学界におけるホッブス研究者への私的な配慮を学問より優先したのである。

(『リヴァイアサン』のように)ある哲学者たち(=ホッブスが人間のこの点について非常に歓んで行う記述は、自然から離れている点で、架空談や伝奇小説で出会う怪物(monster in fables and romances)の説明と同じである」(注7)。

 “怪物寓話の小説家”ホッブスを崇拝して、ホッブスとはIQが天と地ほどに異なるのを忘れて“オレ様は、日本のホッブスだ”と妄想に耽る革命狂が、仮面をとった長谷部恭男の本当の顔。長谷部恭男のキワモノ本『INTERACTIVE憲法(=対話の憲法』は、ホッブスの『対話』を模倣した、その紛い物。

 なお、スーパー駄本『INTERACTIVE憲法』で長谷部の相手を努めるIQゼロの「B」とは、長谷部と同じくIQを欠落した女弟子。この極左の女革命家は、ナチ党員で独裁者政治理論のカール・シュミットに心酔して「黒地に赤」の旗を振り回すだけ。

ルソーの社会契約国家=立法独占の独裁者が無制限に国民殺戮をする体制

 がしかし、長谷部恭男は、有害図書の伝奇小説『リヴァイアサン』を、日本の平和を考えるに直結する高邁な思想を湧き出している“知の泉”か何かに詐称する。そればかりか、『リヴァイアサン』の猛毒が猛毒に感じないほど、人類史上、最凶最悪の血塗られた全体主義国家を設計したルソー『社会契約論』を、国家の平和を考える“神の声”かに神格化する。長谷部恭男がお経を上げている、畸形の怪物がいっぱいの有害童話『憲法の理性』の、その第二章がこれ。章タイトルは「国内の平和と国際の平和」で、意味不明。副題も(「ホッブスとルソーを読む」なら判らぬでもないが)ホッブスを読むルソー」で、これも意味不明。

 ともかく、“スーパー逆・憲法学者”の異常さを遺憾なく発揮して長谷部は、“正常な憲法学”なら必ず排撃する国民の自由/生命/財産を剥奪するホッブスやルソーの社会契約論を、逆さにも憲法学に枢要な知見だと逆立ちする。真赤な狂気の猛炎が立ち昇っている長谷部の次のカルト経文を読む時は、読者は消化器を手離してはいけない。

「国家は何のために存在するのか、なぜ国家の権威に従うべきなのかという問題は、憲法学の根底にある問題の一つである。十七~八世紀にヨーロッパで開花した社会契約論は、憲法学の)この問いに答えようとする試みとしてみることができる」

「社会契約論は、社会契約という人々の意思の合致に基づく人為的構成物として国家を理解する。社会契約以前、少なくとも最初の社会契約以前には、国家は存在しない。それが自然状態である」(注8)。

 社会契約論とは、人間の知力で自由を擁護する国家や社会がつくれるとの、デカルト的な“人間の思い上がり”を母胎として生れた狂妄の思想。だから、社会契約論に基づき誕生した、レーニンのソ連/ポル=ポトのカンボジア金日成北朝鮮などの「社会契約国家」は、例外一つなく、人類史上に突出して最暗黒の全体主義体制となった。

 そればかりか、これら「社会契約国家」では、国民はふんだんに国家権力に殺戮された。ソ連では六千六百万人、毛沢東中共では一億数千万人、ポルポトカンボジアはたった四年間で人口の四分の一(八百万人のうち二百万人、1975~9年)が、共産党の独裁者に殺戮された。共産主義者は、数千発の核弾頭より怖ろしい殺人兵器である。

 原爆や水爆の核戦争よりはるかに怖ろしいのは、“悪魔の政治体制”「社会契約国家」をつくろうとする長谷部恭男ら凶悪のコミュニスト革命家の方なのは、二十世紀の人類史で証明済み。「長谷部恭男コミュニスト憲法学者を廃絶せよ!」と叫ばずに、「核廃絶!」と叫ぶ日本人は、“非国民”の極みどころではなく、大量殺人を宗教教義として信仰する“反人間”の凶悪犯罪者である。

 社会契約論が“過激な反・立憲主義”であることは後述する。IQが劣悪か欠落する長谷部の社会契約論の記述が非難不能なほどにハチャメチャすぎるので、先に、ホッブスやルソーの主張どおりの社会契約論を正確・厳密に復習する必要があるためだ。

 狂気の社会契約論はホッブスとルソーらにより提唱された。が、これを論駁して断罪する正気の反・社会契約論の保守主義思想が立ち塞がったことによって、十九世紀半ばまでは、社会契約論はいったん封殺された。これは、政治思想史のイロハ的常識。だが、いったん滅菌されゴミ捨て場に捨てられた“反人類・反人間の社会契約論”を生き返らせた極左哲人が十九世紀に活躍した。ベンサムマルクスである。

 こんな基礎歴史はともかく、十七~八世紀の百年以上の永きにわたって英国で展開された、狂気の社会契約論と正常な反・社会契約論のイデオロギー戦争の争点を、表2にまとめておこう。

 

表2;ホッブスとルソーをいったん封殺した英国の法哲学・政治哲学

ホッブスルソーの社会契約論

コークへイルヒュームブラックストーンバークの反・社会契約論

「人による政治」

「法・ルールによる政治」

国家は人間の知力で計画的に設計できる。

国家は、伝統や慣習の堆積した歴史的発展の生成物だから、人為的には創れない。

人間は、専制君主・独裁者・立法者を別として、平等である。

生まれながらの不平等が人間だから、この不平等をあるがままに尊重しなければならない。ただ、「法の前の平等」は自由擁護の要諦で絶対視されなければならない。

自由ゼロこそ人間の社会or「自由ゼロが真なる自由だ」と信仰すれば自由だ!

真正の自由を擁護する法制・国制の根幹は、「法の支配」と「立憲主義」である。

 

 なお、ホッブスとルソーは、社会契約論の師と弟子のような関係だが、自由を圧搾する猛毒性において、弟子ルソーのそれは師ホッブスの何百倍も濃縮され致死性は無限大となった。だから、ルソーの社会契約論を吸飲すれば人間の国家社会は確実に死に至るのである。両者の相違は、表3。

 

表3;ホッブスの社会契約論、ルソーの社会契約論

ホッブスの社会契約論

ルソーの社会契約論

新しい「俗の国」づくり

現存の国家を、理性神を拝む<市民宗教>のカルト宗教団体に改造する。すなわち、「人間の国家」を「神の国」に改造する。

世俗の主権者による絶対支配の政治体制

性神たる「立法者」が、「主権者」の「人民」を奴隷として「立法者」信仰を強制できる。個人崇拝のカルト宗教を狂信する共同体。

「支配ー被支配」の人間の不平等は、「契約」で追認されているのだから、問題とすべきものとはならない。

人民はすべて、自由ゼロで財産ゼロにおいて完全に平等。「立法者」は神で、完全平等の契約社会から超越した外部に存在。

「内乱のない平和」第一主義

「立法者」は「人民」を無制限に殺戮できる。人間が絶えず大量に殺戮される、平和も安全もない血が流れ続ける宗教共同体。

 

 ホッブスの『リヴァイアサン』とルソーの『社会契約論』を、以上のとおり正確に理解した上で、上記に引用した長谷部の言説をもう一度読み返していただきたい。

 社会契約国家では、スターリンソ連であれ、金日成金正日金正恩北朝鮮であれ、ポル=ポトのカンボジアであれ、憲法は存在しない。自由社会の諸国家を騙すための飾り窓の憲法はある。が、この種の憲法が国内政治において一顧だにされず機能することはいっさいない。共産党であれそのボス一人であれ、独裁者が独裁的に政治のすべてを命令する「憲法なき、最悪の〈人による政治〉体制」だからである。

 ところが、“ガラパコスの赤い奇獣”長谷部恭男にかかると、この憲法不在の社会契約国家において、憲法学が何か“万能の回答機械”かのごとく「問いに答える」らしい。“缶コーヒーの自販機は〈ご褒美ATM〉だから、お金がザックザックと出てくる”と吹聴する狂人と、上記の長谷部の引用文との間に差異があるだろうか。

 さらに、長谷部恭男は、ホッブスやルソー以前に、国家はこの地球上のどこにも存在しなかったと、その狂気を振り撒く。ルソーの『社会契約論』は1762年刊だから、1762年以前のフランスや世界史に、ルイ十四世のフランス王国はむろん、江戸時代の日本も清帝国も、国家など存在しなかったと長谷部は言うのである。

 長谷部の言説は、そんな意味ではなく、古代ローマ帝国であり古代の都市国家アテネであれ、世界史上のすべての国家は社会契約で誕生したとの謂いだと言うなら、もっと辻褄が合わない。ローマ帝国が発祥するに当ってどのような「社会契約」があったと言うのか、長谷部よ、説明したらどうだ。“ガラパコスの赤い奇獣”はまた、赤い狂獣でもあった。ダーウィンが生きていたら是非とも観察してもらいたかった。

 そもそも人間は「社会契約」でこの世に生れてくることはない。胎児はいつ国家と社会と契約したのか。契約が成立しなかったら、胎児は生れるのやめてみずから流産するのか。

 早稲田大学は、野良猫の仔と人間の赤ン坊との区別ができなかった究極の精神分裂病のルソーと同じ病気を病む、“ルソー教の狂徒”長谷部恭男を分限解雇し、精神病院に収監する社会的責任を果すべきではないのか。

 余談だが、社会契約論からレーニン/スターリン共産主義体制が誕生した思想的メカニズムをおさらいしておく。

 ①デカルトの理性主義/ルソーの社会契約論によって「人工的に国家社会は創造できる」との狂説が誕生→②神学者グノーシス派)ヘーゲル/数学者コント/生物学者ダーウィンらから「社会は進化する」との第二の狂説が流布→③マルクスが①と②を経済社会学を混ぜて総合→④ルソーとロベスピエールマルクスを信奉するレーニンが“大妄想”「共産主義社会」の建設実践を暴力と恐怖(殺戮)で強行。

 なお、ルソーを日本人で正しく読んだのは、明治憲法起草時の井上毅/加藤弘之が最初で最後。その次が、一一五年を経て、中川八洋『正統の哲学 異端の思想』。戦後五十一年も経った1996年。その後に中川八洋に続く者はいない。大学のシステムが(抜きん出た特殊能力と偶然が中川並みでない限り)絶対不可能にしているからである。

 戦後の日本でルソーを正しく読みその通りに出版する事が絶対不可能なのは、一例として、学界をくまなく嗅ぎ回る桑原武夫を頂点とした共産党らの巨大な検閲体制の弾圧の歴史を思い出せば、およそ理解できよう。日本の文系大学は、北朝鮮と何ら変わらない暗黒の共産国家体制が実態である。“大学の自治”の名で日本の文系大学は、自らの【共産コミューン=赤いガラパゴス島】を恒久的に堅持できる体制になっている。日本国民もまた、これを知って知らぬか、放置するのを慣行としている。

第二節 “正しい立憲主義”で憲法学界の嘘・立憲主義を叩き潰そう

 長谷部は立憲主義の四文字を濫用する、反・立憲主義の共産革命家である。『憲法の理性』第一章は、意味不明な「平和主義と立憲主義」が章タイトル。『INTERACTIVE憲法』の第16章はたった十二頁しかないのに、四文字「立憲主義」が二十数回使われている。長谷部恭男は、“立憲主義呪文教の教祖”である。

 だが、長谷部の立憲主義が反立憲主義なのは、「ホッブスからロールズに至るまで、個人主義に基く立憲主義が前提とする国家は・・・・・」(注9)などと、反・立憲主義の社会契約論者こそ立憲主義者だとすることで、明らかすぎよう。意図的に転倒語法を駆使しているのだが、ナチズムコミュニズム混淆の極左革命家として思考が逆立ちしているからでもある。

 これらを一つ一つ批判してもよいのだが、紙幅を計算すると四百字詰め原稿用紙で五百枚を越え、どうやらブログには不適当。そこで、本稿では、正しい立憲主義を概説して、稿を閉じることにしよう。

 日本の憲法学者が反・立憲主義立憲主義だと詐称し強弁するのは、長谷部恭男ひとりではなく、憲法学界全体の“談合”でそう決めた節がある。共産党シンパの佐藤幸治が書いた全編嘘だらけの『立憲主義について』放送大学叢書、左右社)も、この一つ。

 さて、憲法Constitutionとは、英国で発祥した思想・哲学上の概念である。だから、「憲法」は、明文憲法を意味しない。英国には、過去にも現在でも、明文憲法はない。憲法Constitutionとは、国家権力を制限する機能と任務を持ち、国家権力の上位にある“古来からの上位の法/上位の国制”という意味。

 フランスで1789年に革命が起こり、その後、明文憲法Constitutionが制定されたとき(1791年3月)、仏語もスペルが同じだから、多くの英国人は、「どうしてそんなものが憲法Constitutionなんだ!」と憤慨した。憲法が立脚する思想が真逆である以前に、憲法が明文化されること自体への強烈な違和感がまず最初にあったからだ。フランス憲法憲法だと考えたイギリス人は「リチャード・プライスとトーマス・ペインだけ」との言い草は、必ずしもオーバーではない。

 英国は、“古来からの根幹的な国制・法制”を“憲法”と表現し、それを尊崇し重視することによって国家権力──国王大権、国会権力──を制限することを、“立憲主義constitutionalism”とした。これは、人間の叡智として「お見事」と感嘆する他ない。

 過去において証明された祖先の試行錯誤から形成され発展した一般原則の方が、国家権力が恣意的に国民の自由/生命/財産に対して強制や侵害をすることを規制し防止する方法として確実なことは、言うまでもないこと。その時々の利害紛争をその時々の考えで解決しがちな国家権力の立法を、長期的な証明済みの一般原則に従属させる方が、国民の自由/生命/財産に対する強制や侵害を最小化する。なぜなら、如何なる即時的な解決も、その後に起こるすべて悪影響を考慮する判断力を人間が能力的に有さないからである。

 憲法とは、このように古来からの国制・法制の根幹的な一般規則でなければならないから、古来からの伝統や慣習が破壊的に排撃されるルソーらの社会契約論やケルゼンらの人定法主(法実証主義は、“正しいright 憲法”とは決定的に違背する。

 長谷部恭男らの「狂ったfalse 立憲主義」は、理論的にも、その実態からも、「憲法条文の宗教的信仰主義」「憲法条文のカルト宗教<神格化>主義」である。“古来からの国制・法制の根幹的な一般規則によって国家権力とりわけ立法権力を制限する”という立憲主義の正しい意味をいっさい含意していない。むしろ、この“正しい立憲主義”とは百八十度逆の対極的なものとなっている。

 立憲主義を本格的にもっと論じたいが、本稿は、既にブログの適正量を越えた。読者に対し、舌足らずのままここで中断することの、お許しを乞う。

 

1、長谷部恭男『比較不能な価値の迷路』、東京大学出版会、四一~二頁。

2、邦訳は『哲学者とコモンロー学徒との対話』、岩波文庫。原文はThe English Works on Thomas Hobbes,vol.Ⅵ.に収録されている。引用は、英語原文p.15、pp.22~3.

3、Holdsworth,A History of English Law,vol.Ⅴ.に、「附録3」として収録。へイルは、この手稿を1670年前後に書いたようだ。『対話』は1681年に出版されたが、ホッブスは十五年ほど前の1660年代後半に脱稿している。ヘイルは、回覧されてきた印刷前の原稿で『対話』を読んだ。引用は、この第Ⅴ巻のp.508.

4、E.Coke,Institutes of the Laws of England,2nd part、pp.55~6,pp.73~4.

5、ハイエク『法と立法と自由』第一章、『ハイエク全集』第八巻、春秋社、一五~二三頁。

6、HydeA Brief View and Survey of the Dangerous and Pernicious Error to Church and State,1676.邦訳はない。

7、ヒューム『人性論 四』、岩波文庫、五八頁。

8、長谷部恭男憲法の理性』、東京大学出版会、二三頁。

9、上掲『比較不能な価値の迷路』、二二頁。

 

後記(メモ) 

1、日本の憲法学者の99%は共産革命家や独裁体制願望者ばかりで、人間としての良心もなければ、日本国民という意識もない。国民の生命・財産・自由を破壊して剥奪したいとの狂気的な妄念を燃やしている“逆・憲法学者”ばかりである。

 共産革命を目標に反・学問を平然と旗幟鮮明に暴走する、日本の憲法学界の異常な情況を是正する方法はあるのだろうか。「全国の憲法学者は一人残らず解雇する、日本の大学からいったんすべての憲法学者を一掃してゼロにすること」だけが、確実で唯一の方策。もし「全国の憲法学者は一人残らず解雇して、大学からすべての憲法学者をいったん一掃すること」をしないとすれば、日本国が正常な憲法学を復権的に回復することは万が一にもありえないだろう。

2、“正しい憲法思想入門”というべき『正統の憲法 バークの哲学』を2001年末に出版したのは、日本の大学で狂った憲法学の致死性ウィルスを伝染させられる前に、18歳になった学生が先に飲んでおく、殺菌力確かな抗生物質が必要だと考えたからであった。

 そして、『正統の憲法 バークの哲学』の姉妹版『〈法の支配〉と立憲主義』を直ぐにも執筆することを予定していたが、皇位継承三部作『皇統断絶』『女性天皇は皇室廃絶』『悠仁天皇皇室典範』の執筆に追われて、いつしか忘れてしまっていた。今般、“反・立憲主義”一色の、長谷部恭男のトンデモ“逆(エセ)憲法学”書を偶然に読む羽目になって、十五年前に『〈法の支配〉と立憲主義』を執筆計画していたことを思い出した。頑張って書くべきか否か、今、思案している。

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