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中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

“悪の月刊誌”『文藝春秋』の歴史改竄キャンペーン ──「戦後70周年」に便乗する反日勢力の嘘歴史狂騒録Ⅰ

筑波大学名誉教授  中 川 八 洋

 

 二〇一五年九月二日は、大東亜戦争に敗北してから七十年目に当る。七十年前の一九四五年のこの日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ艦上で、日本は大東亜戦争の敗者として降伏文書に調印した。この日本国の降伏をもって、地球を所狭しと世界を戦火に包んだ第二次世界大戦は終結した。

 日本では、敗戦記念日終戦記念日というと、ポツダム宣言受諾による停戦命令を発せられた昭和天皇玉音放送の八月十五日を指し、なぜか九月二日ではない。この誤りは、「停戦 cease-fire、truce」と降伏調印の「終戦 end of the war」とを履き違えたもので、歴史学的にも国際法上も不正確はなはだしい。

 それはともかく、八月十五日であれ九月二日であれ、安倍晋三が考えている“戦後七十周年談話”は、国内外で余りに騒がれ過ぎている。奇襲的に国会で発表すれば済んだものを、絶対多数の国民からの事前コンセンサスや支持が欲しいのか、人気至上主義の安倍晋三は“戦後七十周年談話”を不必要にも過剰な物議を醸すものにしてしまった。

 このため、“共産党独裁者”習近平が率いる「反日」が国是の中共も、「反日」以外に国民からの支持がない“枯れ尾花オバサン”朴槿恵が率いる韓国も、これ幸いとばかり、半年も先の(現時点では存在していない、いわば幽霊の)非在の安倍談話を大声で糾弾する始末。

日本人を嘘歴史に洗脳せんものと、出版界こぞっての赤い出版物の洪水

 ところで、この「戦後70周年」に便乗しているのは、反・安倍晋三中共や韓国、あるいはこれらの敵性国家と通謀する朝日新聞ばかりではない。一儲けしようと考える商業出版社たちの粗製乱造の出版物がやたらに店頭に並んできた。しかし、それらの中で、日本のこれからに裨益するものなど一冊もない。すべて極め付きの有害図書ばかり。

 以下、これらを順次解剖していくのは、戦後七十年が経った日本には、日本人に嘘歴史を刷り込もうとの犯意剥き出しの出版物しか出版されなくなった、おぞましい事実を明らかにし、いずれ亡国に至るだろうが、日本の後世に遺しておきたいからである。

 このシリーズ第一回として俎上にあげるのは、コミュニスト半藤一利が牽引する文藝春秋社の、その月刊誌『文藝春秋』が過去に掲載した論考をそのまま転載収録した「太平洋戦争の肉声」という四巻もの。

 驚くなかれ、それらの多くは、朝日新聞社従軍慰安婦「歴史偽造」報道とそっくりの、学問的に『文藝春秋』誌から削除されるべき誤報・虚報なのが確定したトンデモ論考が過半。つまり、反共の菊地寛や池島信平がトップにいた時代に既に文藝春秋社の内部では、共産党のスリーパー(潜入者)たちが暗躍していたことを露わにする、そのような問題論考を、そうと知りながら、世代が変わって真偽などどうせわかるはずもなかろうと、日本人に刷り込んでしまえと「反日」一辺倒の編集になっている。

 この文藝春秋社の対日偽造歴史洗脳キャンペーン「太平洋戦争の肉声」全四巻を刊行したチーフ編集者は、木俣正剛である。共産党員かどうかは知らない。が、共産党員でなければできない、歴史偽造の悪意がありありのトンデモ編集になっている。木俣は、おそらく“札付きコミュニスト半藤一利の子飼いだろう。

死んでいる河本大作がどうして手記を書けるのか ──KGB共産党が捏造した真赤な嘘手記を掲載する文藝春秋社の手口は、吉田清治朝日新聞のそれ

 文藝春秋社が、2015年3月に出版した「太平洋戦争の肉声」第四巻は、『テロと陰謀の昭和史』だが、その巻頭論考は笑止もほどがある。なぜなら、それは1954年12月号に掲載された、河本大作という名前を騙る「満洲某重大事件 私が張作霖を殺した」だからである。この「手記」が真赤な捏造記事なのは、明白。議論の余地はない。

 さて、ここで、頭の整理をしておこう。張作霖爆破事件の首謀者が、日本の帝国陸軍(=在満洲関東軍か、それともソ連のGRU(ロシア国防軍参謀本部情報総局)か、については日本の歴史学界で決着がついていない。このため、「張作霖爆破事件の首謀者は、河本大作」なる説が完全な虚説だとは、未だ断定されてはいないのが実情。

 だが、張作霖爆破事件の首謀者が歴史学界で未決着である問題と、『文藝春秋』誌上の「私が張作霖を殺した」が河本大作の名を騙る“世紀の偽作”である問題とは、いっさい関係が無い。後者は、学術的に完全に確定している。

 理由は、簡単である。河本大作・元陸軍大佐は、1953年8月25日中共が所轄する「戦犯」管理所(収容所、山西省太原)で「病死」した(用済みで処刑?)。一方、『文藝春秋』誌の「手記」は、それから一年四ヶ月後の1954年11月10日発売。つまり、この捏造原稿は、河本大作が死亡してから一年四ヶ月も経った1954年10月頃に急ぎ書かれたものだと解釈する方が合理的で、そう解釈しないのは不合理である。

(備考)河本大作の骨は、1955年12月18日、死んでから二年四ヶ月後に、舞鶴港に着いた。葬儀は、1956年1月31日で、友人代表として幸徳秋水系の極左アナーキスト大川周明が弔文を読んだ。河本大作が暴力革命狂でコミュニストなのは事実だろう。

 

 文藝春秋社がもし仮に、河本大作本人が書いたと本当に思っていれば、「この手記は、生前の○年頃、場所□で書かれ、△が託されて持ち帰った」と明記したはずである。だが、『文藝春秋』誌のどこをみても、このことは書かれていない。文藝春秋社は、この手記が真赤な嘘だと知りながら確信犯的に掲載した。そして、それから六十年経った2015年、この嘘を次代の読者を騙し継承させるため、再び掲載した。

 文藝春秋社とは、歴史の偽造を牽引することで朝日新聞とは同志だし、日本共産党の下部機関に積極的になりきっている。文芸春秋社の中は、従軍慰安婦について真赤な歴史を捏造した“吉田清治”が何人もいる。半藤一利をみれば、直ぐに納得できよう。

 なお、Wikipediaで「河本大作」を検索すると、死亡年が1953年から「1955年」に改竄されている。「死没後二年間も生きていた」と、わざわざWikipediaがこんなあからさまな嘘をデッチアゲる改竄をしたのは、『文藝春秋』誌のこの「手記=1954年末」をさも捏造でないかに強弁・嘘宣伝するため、文藝春秋社と連動した偽情報工作の一環と見てよい。

(備考2)「一九五三年」を「一九五五年」に改竄する偽情報工作の最初は、戦後は“中共の対日偽情報工作員”となった平野零児のようだ(注1)。

 

 また、この「手記」を書いた人物は、河本大作の義弟である平野零児(本名は嶺夫)だとの風説は根強いが、これは間違い。なぜなら、1954年末時点、平野零児も太原収容所に収監されており、その帰国は1956年8月。

 しかも、この「手記」を読めばわかるように、上っ面な回想で、当事者でなくとも誰でもかける。特に、そのほとんどは、日本国内の政治を述べており、張作霖爆殺の部分はほんの少し。「朝日新聞社やその他の新聞の共産党員記者が書いた」ことは容易に想像できる。井星英は、文藝春秋社の社員への聴取から、文藝春秋社に持ち込んだのは東京日日新聞毎日新聞主筆だった阿倍真之助(1960年にNHK会長)ではないかと注記している(注2)。だが、井星によっても、書いた本人が阿倍本人なのか、彼の部下の記者なのかはわからない。

(備考3)後述する国松文雄も、○○と伏字にして、この手記の持ち込み者を特定している(注3)。○○に「阿倍真之助」と挿入しても文章はつながる。ただし、某「朝日新聞社の大物記者」の名前を入れても通じる。○○とせず、実名を挙げるべきだった。

 

 少なくとも、河本大作が事件の当事者で、この「手記」を河本本人が書いたならば、次のような文章には決してならない。

(南満洲鉄道と京奉<奉山>線の)クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。予て用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一(の爆破)が仕損じた場合、直ちに(予備の)第二の爆破が続けられることにした」(注1)。

 まず、この文章は明らかに不可解・不自然に過ぎる。第一に、爆破装置をどこに取り付けたかが書かれていないからだ。①流言飛語が通説になった「京奉線鉄道の真上にある南満洲鉄道の鉄道橋の下に取り付けた」のか、それとも②「京奉線の線路に取り付けた」のか、③「列車の張作霖が搭乗する車両の中に取り付けた」のか、それが全く書かれていない。第二に、実際に爆発させた起爆過程についていっさいの記述が無い。

 さらに、列車は特別列車でかなりのスピードで走っているから(およそ秒速10~20m)、橋の下(列車の真上)でも線路上でも、もし爆発に仕損じた場合、二度目は不可能。通り過ぎてしまっている。つまり、「予備を取り付けた」としても、ほぼ同時に起爆させる。爆殺の実行犯なら、この予備の妥当な技術的説明をしているはずだし、その実際の起爆過程を証言する。つまり、上記の文章そのものが、この「手記」が偽書であるのを「自白している」。

 要するに、「予備」などなかったのは、偽書「手記」にあるこのような爆破装置が、そもそも設置されていないから当り前だろう。つまり、この偽書には書いていないが、一般に流布されている「爆発の交叉地点から200m離れたところに、二つの起爆装置を設置した」という事実そのものが存在しなかった、と歴史を修正する必要がある。

 なお、森克己教授が河本大作に(十四年後の)一九四二年インタヴューした記事によると、河本は「予備」を先に爆発させ、続いて「第一」のも爆発させたと述べている(注5)。テロや軍事のプロなら、証拠隠滅のため、必ず両方とも爆発させる。河本の森教授への供述の内容が本当だとするなら、これとは余りに相違し、何も書いていないに等しい『文藝春秋』誌の「手記」は、バレバレに嘘明白。偽書なのは確定的。

 爆破された列車の写真からして、爆発装置は列車の内部に仕掛けられていた。しかも、張作霖が座っている近傍の真上──装甲を施された搭乗車両内の天井──で爆発している。偶々、爆発が「クロス地点」であった事実から、この“クロス地点の橋にしかけた”が、もっともらしく作文されたと解釈する方が、技術的には順当で常識である。この意味で、『文藝春秋』誌の真赤な捏造手記を、「捏造だ!」と最初に指摘した国松文雄の指摘は評価される(注6)

 なお、(この12月号を編集した)1954年10月時点の『文藝春秋』誌編集長は、1959年に文藝春秋社の社長になる、日本共産党秘密党員の上林吾郎である。とすれば、この捏造手記は、上林吾郎と阿倍真之介の密談から掲載されたことになる。両名の背後に、ソ連中共が介在していなかったとどうして言えるのか。

 また文藝春秋社は、この「手記」が河本大作本人の執筆でない事実は認めざるを得ず、1956年8月に中共の収容所から解放され帰国した河本の義弟平野零児がさも書いたような風評を流した。嘘を上塗ってひたすら悪事を重ねる文藝春秋社のやり方は、朝日新聞に瓜二つ。だが、この偽書「手記」の文体は、平野零児のそれでない。この事は、『文芸春秋』誌の「中共からもらった玉手箱」(注7)や戦前の平野の投稿記事「満洲国執政・愛新覚羅溥儀に謁するの記」(1933年2月号)を読めば直ぐに明らか。

 文藝春秋社の悪事の上塗りは、凶悪犯罪者の手口。なお、後者の記事は、平野嶺夫の本名で、『太平洋戦争の肉声』第四巻にも収録されている。木俣正剛は、コミュニスト平野零児がよほど好きなようだが、同じ「反日」思想を共有するからか。

張作霖爆殺は、ロシアGRU工作員か、それとも河本大作か

 さて、一九二八年の張作霖爆殺事件が、ロシアGRUの単独テロなのか、関東軍(河本大作か、他の高官)の単独テロなのか、歴史学的には決着がついていない。しかも、この歴史論争を複雑にしたのは、ロシアGRU説を最初に声高に叫んだのが、“歴史の偽造家”西尾幹二らの「新しい歴史教科書をつくる会」で、これに中西輝政が助っ人に加わったためだった。

 日本の学界における西尾幹二中西輝政らの信用のなさは底なし。両名とも、学者でなく、売文専業のデタラメ評論家。実態的には、両名とも小保方晴子氏を凌ぐペテン師。日頃、創り話で歴史を語る者が偶に真実を語っても、誰も信用などしない。この両名が歴史に物言えば、逆効果が大きく跳ね返ってくる理由はこれである。

 ロシアGRU説が、日本で流布したのは、二つの資料からである。二番目は、『マオ──誰も知らなかった毛沢東(英語原著2005年刊、邦訳も2005年)に、次のように書かれていた。

張作霖事件は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連諜報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令に基づいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだと言う」(注3)。

 第一番目の資料は、ロシアで出版された『GRU帝国』(2000年)。コルパキヂ/プロホロフの共著。『マオ』のユン・チアンも、これを引用。『GRU帝国』は、産経新聞の内藤泰朗(モスクワ支局長)が、雑誌『正論』二〇〇六年四月号に、この著者プロホロフへのインタヴューを掲載したことで、一気に有名になった(注9)。そして、翌五月号に、ロシア語に堪能な瀧澤一郎が、『GRU帝国』の当該記載箇所をもっと判り易く解説した。

 中西輝政らのGRU説に真っ向から噛み付いたのが、従軍慰安婦では存分に歴史学者だった秦郁彦。秦の著『陰謀史観(2012年刊)は、この一つ。秦郁彦が、ノンフィクション歴史小説の類でしかない、民族系論客の中西輝政西尾幹二小堀桂一郎らの“トンデモ歴史評論”一般に対して、どんなラベルを貼って排斥しようと一向に構わないし、それは学術的に言えば支持されるべき正当な言動とも言える。

民族系の「陰謀歴史小説」の排斥は正しいが、諜報史排除は歴史家の自滅行為

 だが、秦郁彦が、歴史学の主要なジャンルである“諜報史”を「陰謀史観」として排除する事は、謀略や偽情報工作が世界史を左右するようになった、ソ連が誕生した以降(1917年~)の現実の歴史に対して、その真実を積極的に隠蔽・歪曲することになる。1917以降の歴史学は、外交史/軍事史諜報史/戦史/政治史/経済史ならびに共産主義イデオロギーロシア・ソ連の対外工作史の八分野に精通しなければ、歴史の真相や真実に到達する事は万が一にも不可能。

 秦郁彦の歴史が、隔靴掻痒の薄っぺらい歴史にしかならない原因は、自分がチンプンカンプンだからといって諜報史を全面的に外した結果である。ロシアが捏造した『シオンの議定書』をヒトラーが流布させ日本人の中にもこれを信じて「ユダヤ第二次世界大戦惹起説」のような荒唐無稽な“陰謀史観”があるのは認める。だが、秦郁彦のように、歴史学の重要な柱である諜報史を“陰謀史観”に含めるのは、秦郁彦が学者として重大な欠陥の持ち主である証拠である。

 例を挙げる。秦郁彦の『明と暗のノモンハン戦史』(2014年)が、凡庸な上っ面の戦史になって、研究目的である軍事史になり損ねたのは、諜報史を完全排斥した当然の負の成果。しかも、ノモンハン生き証人で最も信頼の高い須見新一郎・大佐の遺稿が、生存している長男の手元にあるのに、専業歴史家がこれを無視するとは、いかがなものか。

 話を戻す。私が、張作霖事件に関する自説を発表するのを、本稿の二〇一五年に至るまで、九年間も延期したのは、歴史学者の片隅にもリストできない“ワルの北朝鮮人”中西輝政の“煽動はしゃぎ論評”騒ぎに巻き込まれないためであり、同時に、諜報史や諜報情報を歴史学からヤタラメッタに排除する諜報史拒否病に病む“欠陥歴史学者”秦郁彦の興奮が醒めるのを待っていたからだった。

 ありていに言えば、お祭り騒ぎしかできない“非学者”中西輝政とエクセントリックな“二流学者”秦郁彦が、張作霖事件に関する私の分析視点を発表する機会を九年間も妨害したことになる。

 さらに秦郁彦には、諜報史拒否病のほかに、資料の羅列が得意なくせに資料の精密な読み込みができない先天的な欠陥がある。上述した劉傑がプロパガンダする、捏造バレバレの「河本大作の獄中供述調書」を、秦郁彦は「最も信頼性が高いと判断される」と、これほど明らかな捏造すら見抜けず一八〇度逆に曲読する(注10)

河本大作が真犯人ならば、『文藝春秋』誌の偽書「手記」や、劉傑の偽情報工作論文は、どうして必要か

 張作霖爆殺事件を解く鍵は、積極的にそれを「立証」する証拠の真偽争いをするのではなく、いずれが不可解・不審な「偽証」をしようとしているかの、「偽証」度を比較する方法が正当である。この消極的な学術的手法に基づけば、河本大作説の方が、断定にまでは至らないが、限りなく捏造された虚説と推定せざるを得ない。結果として、「消極的に」の条件付きだが、GRU説の方に分がある。

 偽史を捏造したものは、ばれる不安から、執拗に嘘情報を連続的に流し続ける。つまり、ある歴史に関する偽情報工作の存在は、反面教師的に「偽史であるぞ!」との、真実の声の産声とも言える。つまり、上記で論及した『文藝春秋』誌の偽書「手記」と“中共の対日工作員”劉傑が雑誌『This Is 読売』に掲載した論文という、二本の偽情報宣伝工作の論考が世に出た事は、河本大作真犯人説を全面的に見直せとの、真実を明らかにせよとの歴史の声である。

 私が、張作霖爆殺事件は、①ソ連の単独犯行か、②関東軍が身代わりを事前に了解した「ソ連主犯/関東軍共犯の共同テロ」か、のいずれかではないかと推断するに至ったのは、一九九七年のこの劉傑論文を読んだ時であった。それから九年後の二〇〇六年、上記『正論』誌でのプロホロフへのインタヴュー記事は、証拠の挙証力は不十分すぎるが、①②共通の“ソ連犯行”については一定以上には確信させてくれた。

 また、張作霖爆殺事件への私の関心は、一九三九年のノモンハン事件を解明しようとの問題意識からの派生。ノモンハン事件スターリンがすべてを企画して実行した事は疑いの余地がない。この研究をしようと思い立ったのが一九八九年頃だったから、既に三十年が経つ。そしてソ連主犯・関東軍従犯”八百長」日ソ戦争であったノモンハン事件(=ハルハ河戦争)は、張作霖爆殺事件の延長上の拡大版ではなかったか、という問題意識は、そのとき以来、私の脳裏を離れない。

 ともあれ、対日偽情報工作としての、劉傑のお粗末で馬鹿馬鹿しい論文「歴史の空白を補う 河本の“肉声”」(注11)を垣間見よう。余談だが、劉にしても木俣にしても、どうも嘘つきは、“肉声”と言う言葉が好きらしい。

 劉傑が、史料として引っ張り出してきたのは、中共が捏造した『河本大作の供述調書』である。この供述調書の嘘八百は、余りに明白。一例を挙げる。

「答 日本ファッシストによる中国侵略の意図は久しく存在してきたもので、類似の手段がとられたこともある。皇姑屯事件の当否は戦略計画の絡むことである。日本帝国主義には遠い以前から中国侵略の企図があった」(注5、1953年4月6日「口頭供述」)

 一九七二年以前の日本語に、「中国」という言葉はない。「中国」とは、広島県岡山県を指す日本語。また、「日本ファシスト」とか「侵略」「日本帝国主義」という言葉は、戦後の日本では少しづつ聞く事はあったが、戦前・戦中・戦後を満洲支那山西省で暮らした日本人にとっては、一度も聞いたことも読んだこともない奇々怪々な言語。河本大作でなくとも、そのような言葉が日本人の口から出ることなど完全に不可能。

 支那人張作霖爆発事件を「皇姑屯事件」と呼称するので、「皇姑屯事件」の言葉だけは一九四九年からの四年間の牢獄生活の中で河本大作は覚えたかもしれない。だが、それ以外の言語は中国共産党の特殊用語である。“河本大作尋問調書”は、完璧な中共側のデッチアゲ作文である。言うまでもない。

 河本大作の名前を詐称して『文藝春秋』誌に「私が張作霖を殺した」を書いた人物の背後も、“河本大作獄中尋問調書”を捏造した中国共産党の背後も、同一の組織であろうと考えることの方が合理性がある。ともあれ、『This Is 読売』の編集者の赤化度は、『文藝春秋』編集部の「共産党員半分」よりひどく、「全員共産党員」といわれている。だから、劉傑のような露骨な対日偽情報工作員を平気に登壇させうるのである。

 『This Is 読売』の共産党支配のこの伝統は、その後継月刊誌となった現在の『中央公論』に引き継がれている。

河本大作が「誰か」を庇って罪を被ったのが歴史事実なら、この「誰か」は誰だ!!

 雑誌『正論』の二本の張作霖爆殺事件に関係する論考は、張作霖爆殺の真犯人は、GRU工作員のサルヌィニ機関とNKGB工作員のエイチンゴン機関という超一流殺し屋組織の可能性が高いことを示唆している。ただ、残念な事は、両論考が、そう断定できる決定的証拠を提供できていないことだ。

 一方、河本大作が真犯人だとする「文藝春秋の河本嘘手記」と中共工作員・劉傑の「河本の嘘供述調書」の方は、噴飯物の捏造が明らかだから、これらは、その目的とは逆に「河本大作は真犯人でない」ことの傍証になっている。

 一九二八年の極東における国際情勢からすれば、反ソ・反共の張作霖を最も抹殺したいと考えていたのはソ連とその独裁者スターリンと日本国内の日本人コミュニストだから、国際政治学(国際関係史)からの情況分析と整合するのは、「スターリン張作霖の殺害を命じ実行した」「関東軍の中にスターリンに協力する軍人はかなりの数がいた」を仮説とする方である。

 しかもロシアとは、いかなるテロ・暗殺も、いや戦争に至るまで、その責任を他に転嫁する冤罪をつくるのが人類史上稀有な天才国家。去る2015年2月27日、反プーチン派の野党指導者ネムツォフが殺害されたが、その主犯がプーチン大統領であるのはロシア国内外での常識。だが、その証拠など、どこにも存在しない。証拠を完全隠滅するテロの技は、ロシア民族が世界一で、いかなる国もその足下に及ばない。

 余談だが、このプーチンの政敵殺害の手口は、KGB第二総局出身のアレクサンドル・リトビネンコが、そのプーチン批判の廉で、エイズと同じ症状で死ぬポロニウムを投与されて、見せしめに殺されたケースと同じ。

 東アジアの1928~37年の国際情勢に関する分析をここでは割愛するしかないが、この時期、反共・反ソの政治リーダーは、支那本土では蒋介石満洲では張作霖がいた。この二人の巨頭がいる限り、毛沢東中共支那満洲を制覇してアジア共産化を実現する事は不可能だった。

 スターリンは、前者の蒋介石を倒すための方策として、日本の“コミュニストの巨魁”近衛文麿に命じて、蒋介石との戦争を開始させた。これが一九三七年七月に開戦となった八年間の日中戦争である。

 首相・近衛文麿と日本国全体をすら軽く操れるスターリンにとって、張作霖をテロで殺すのを関東軍にさせるか、もしくは自分たちが「殺っておいて」その責任を関東軍に負わせることなど、いとも容易なことであったはず。すなわち、張作霖爆殺の実行はGRUやNKGBのロシア側工作員が担当し、そのスケープゴートの「犯人」を関東軍が供出する“モスクワ・関東軍の密約”が存在したとする仮説には合理性がある。

 特に、河本大作には、張作霖爆殺を指揮した実行犯だけが有する情報が皆無なのは、どうしたことだ。しかも河本大作の事件後の行動は、関東軍の上層部に存在する“スターリンと共謀したコミュニスト高官”の身代わりで「真犯人」を演じているのをまざまざと見せつけている。

 1928年時点で、スターリンに協力して張作霖爆殺に絡んだ関東軍幹部に潜む共犯者―「第二の近衛文麿」―を割り出すことが、張作霖爆殺事件解明の決定的第一歩である。これさえわかれば、瞬時に、GRU実行説は仮説以上のものになる。また、張作霖爆殺が中共政権を樹立するための“日ソ共同の共産革命テロ”だったことも、仮説を越えて、証明される。

 蛇足だが、河本大作が張作霖爆殺の帳本人ではなく、ソ連の実行犯と関東軍側の共犯高官を庇って、自ら「犯人」を買って出た“自称首謀者”が歴史事実だとしても、河本大作への同情など断じてしてはならない。

 この場合、河本大作とは、犯人隠避の極悪人ではないか。とすれば河本大作とは、一九二八年以降の日本の対支・対ロ外交を狂わせた国家反逆者である。“自称テロ首謀者”の罪において河本大作を“祖国叛逆の犯罪者”として糾弾するのが、主権国家・日本国の正常な法的正義であることに、何ら変わりはない。

 

1、平野零児(嶺夫)『満洲の陰謀者』、自由国民社、二五頁、一九五九年刊。 

2、井星英「張作霖爆殺事件の真相一」『芸林』、第三十一巻第一号、七頁。

3、国松文雄『わが満支二十五年の回顧』、新紀元社、一九六一年。二五〇~五四頁。

4、「河本大作」の名前を騙る偽書「手記」。『文藝春秋』一九五四年十二月号、一九三~四頁。

5、森克己『満洲事変の裏面史』、国書刊行会、一九七六年、二六九頁。なお、この記録(証言)は、森克己教授が聞いたとおりに記録したのは疑わないが、河本大作が正直に喋った証拠にはならない。なぜなら、一九二九年に、河本が真犯人の代わりに罪を被ると決めたとき、関係者と口裏を示し合わせて捏造された「嘘体験の脚本」通りに語っている可能性が高いからである。

6、上掲、国松文雄。

7、平野霊児「中共からもらった玉手箱」『文藝春秋』一九五六年十月号。

8、ユン・チアン『マオ』上巻、講談社、三〇一頁。

9、『正論』四月号の、プロホロフへのインタヴュー記事には、「つくる会」の藤岡信勝の解説記事が添付されている。藤岡は、河本の偽書「手記」を本物として、それに基づき、得意然と解説している。七〇頁。

 藤岡信勝は1991年に共産党を離党した。その理由は米国に留学するための形式上の党籍抹消で、思想転向をしたわけではない。しかも、離党届をわざわざ党本部に持参し、話し合いで即座に円満受理された。藤岡信勝が今も実態的には共産党員で、“二重スパイ”として教科書運動にかかわってきたのは間違いなかろう。

10、秦郁彦陰謀史観』、新潮新書、一六一頁。

11、劉傑「歴史の空白を補う 河本の“肉声”」『This Is 読売』一九九七年十一月号、四〇頁、五二頁。

 

(附記)筆者は、張作霖爆殺事件は、ソヴィエトロシア・関東軍共同テロで、河本大作はこの身代わりだと推定している。この自説の前に立ち塞がる反証的な資料が一つだけあるのを、率直に白状しておきたい。河本大作が親友の磯谷廉介に送った、(爆殺事件の二ヶ月前の)一九二八年四月付けの手紙である。小林一博『支那通一軍人の光と影──磯谷廉介中将伝』、柏書房、四七~五〇頁。 *この手紙の筆跡鑑定を行っていないが、本物だとの前提。

 なお、著者の小林は党籍のある共産党員だし、帝国陸軍の磯谷も確信的な共産主義者だった。この磯谷と河本が親友である事実は、河本も共産主義者だったのを示すが、歴史問題はこの後。

 河本は、共産主義者だったが故に、ソ連やそれと連動する関東軍高官の張作霖殺害共同テロの身代わりになったともいえるし、本人もその実行犯の一人に加わったともいえるからである。後者の場合、河本大作真犯人説に関する歴史の修正は半分ほど不要となる。                 (3月28日記) 

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