中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

道徳の“教科”化を反対する者を“殺人教唆予備罪”で逮捕・加罰できる立法を!──道徳は、価値相対を超越する“絶対の法”

筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

 道徳の学校教育が戦後初めて導入されようとしている。さる十月二十一日に、中央教育審議会がそう答申したからだ。二〇一八年四月から、道徳教育は、これまでの部活などと同じ地位の「教科外の活動」から、教科書のある「教科」となる。

 しかも、戦後七十年間も続いた現行の「道徳の時間」における実際の授業内容は、密室であったため、日教組など赤い教師のやりたい放題だった。このため、「道徳の時間」の授業内容は、全国的に、共産党部落解放同盟が主導する「平等・人権・平和教育」が主で、これに「天皇制廃止煽動」が続いていた。一言でいえば、現行の「道徳の時間」は、共産革命教育が十全に徹底的に行なわれるよう、赤色官庁の文部省がグルになった、次代の日本人の赤化教育のための時間であった。

 二〇一八年度から導入される道徳教科書は、国民の一般常識に反して、必ずや極左色一辺倒で“道徳の紛い物”が作られるだろう。それでも教科書が初めて導入されることによって、「平等・人権・平和」や「天皇制廃止」の共産革命教育は半減する。少なくとも国民や保護者は、二〇一八年度以降は、年間三十五時間のトンデモ授業内容の実態を知ることができる。

 道徳の学校教育における教科書導入の効果の第一は、「道徳の時間」との嘘ラベルのもとで、“反道徳”と“反日”の洗脳に活用されてきた、これまでの密室/暗黒の学校教育が一掃されること、そのことにある。

第一節 無道徳という“悪魔のドグマ”の起源と蔓延

 朝日新聞毎日新聞など、共産党が完全に編集権を牛耳る赤色革命新聞は、躍起となって、学校教育における道徳の「教科」昇格に猛反対するキャンペーンを展開する。なぜ彼らは、常識に悖る、一般通念上の道徳を教育することに反対するのか。

 この理由を説明できる保守系の知識人は、日本にはもはや一人もいなくなった。正しい道徳教育が絶対に必要だと考える方が、正常な常識である。だが、戦後日本を支配する無道徳主義や道徳排撃運動がどう発生しどう形成されたかは、一定以上の哲学思想の造詣なしでは説明できない。

 日本最後の保守系知識人として、道徳の復権と言うべき道徳教育の必要性問題を以下数回概説するのは、道徳の再興なしには、迫る日本の亡国が確実だからである。

道徳破壊と善悪差別否定を人類初に提唱したルソーの『人間不平等起源論』 

 人類史上初の、道徳否定の「無道徳こそ理想社会」を唱えたのはルソーで、その“悪魔の書”『人間不平等起源論』(1755年)においてであった。動物と人間の区別がつかなかった重度の精神分裂病で“極限の狂人”ルソーは、人間の理想社会を創造するに、それを動物の生態に合致させるべきと考えた。

 「法や法律のない社会」「倫理道徳のない社会」「家族のない社会」「病院・薬のない社会」「国王を殺害する社会」「万人が無私有の社会」「万人が富のない未開人の貧困における平等社会」こそ人類が求めるべき“幸福に満ちた理想社会”だとの狂気を提唱したのが『人間不平等起源論』なのだが、薄っぺらい本だから、中学生以上であれば誰でも読めば直ぐにわかる。

『人間不平等起源論』はまた、野生の動物が“平等に弱肉強食”である実態が最高の理想社会であり、また孤児で浮浪児で家もなく子供のときより盗みと乞食と詐欺で成長した自分こそが、最高の理想人間だと信仰すべしとのアッピールでもあった。

 このルソーの提唱した狂気の動物化した社会、もしくは家族のない孤児および孤児が成長した異常人格の大人だけからなる無家族社会が、ルソー教徒のマルクスエンゲルスとレーニンによって、人類が突き進んで求めるべき究極の理想社会“共産社会”だと再定義された。共産主義者とは、ルソーという人類最凶の悪魔の狂妄説を狂信するカルト信仰の人々のことであり、むろん正常とは対極的な、残虐非道な究極の非人間つまり悪魔の化身たちのことである。

 レーニンとスターリンが自国民六千六百万人を殺戮したのも、カンボジアのポル=ポトがたった四年間で自国民の四分の一に当たる二百万人を殺戮したのも、ルソーを開祖とする人類最凶のカルト信者が権力を握った狂気体制の当然の帰結であった。

 ルソーはこの書で、“倫理道徳の消えた社会=共産社会”をどう提唱したか。ルソーは、未開人を理想人間だと狂妄する詭弁論理の中で、こう言った。

(人類の理想人間である)未開人…は、互いの間にどんな種類の道徳的な関係も、はっきりした(道徳的な)義務も、もっていなかったのだから、善人でも悪人でもありえず、また悪徳美徳ももっていなかったと思われる」

「悪を怖れることもなく、善を期待することもない(未開社会の)方が(=善悪不在の社会こそ)、幸福な状態(の社会)なのではなかろうか」(注1、丸カッコ内中川)。

 確かに、未開・野蛮人には道徳律はない。ルソーは、文明人である十八世紀のフランス人に向かって、このような未開人になれと、道徳の遺棄を勧めたのである。

 道徳律とは、「を良きこと、を悪いこと」として善悪を峻別する、つまり「善を上、悪を下」の不平等の上下に差別する、人間の高雅な精神が息づく思惟である。

 この善悪の差別/不平等化によって、文明の社会は自由を棲息させている。そして、正しい自由は、必ず道徳とくに悪を差別的に排斥せんとし善に生きようとする美徳と強い絆で連結されている。一方、善悪の差別という道徳律が不在の社会となれば、独裁権力が善悪を恣意的に定める社会となるし、このような社会は独裁権力の恣意的法律によって善は否定され悪が強制される。

 善悪が不在の社会では、国家権力は悪そのものとなるからである。いっさいの善が不在の悪魔の社会である、道徳否定と善悪不在の共産体制が、スターリンソ連やポル=ポトのカンボジアのような暗黒の全体主義社会となったのは、このメカニズムの必然であった。

自国民に対する大量殺戮なしには存立不可能な無道徳全体主義体制──ロベスピエール/レーニン/ヒトラー毛沢東/ポル=ポト/金日成

 ここに、実はルソーの天才性があらわに明らかとなっている。ルソーは、暗黒の全体主義社会をつくり、自らがその独裁者となり、国民を恣意的に無限に殺戮したくて、道徳のない社会/善悪のない社会を提唱したのである。単なる狂人として“道徳のない社会/善悪のない社会“という戯言を偶発的に提唱したのではない。

 『人間不平等起源論』の後にその姉妹本として書いた『エミール』(1762年)こそは、それ以前の人類の誰一人として考えつかなかった驚愕すべき“独裁体制の創り方”の本だが、ロベスピエールもレーニンも毛沢東金日成も、その独裁体制は『エミール』を下敷きにした。『エミール』と同時出版の『社会契約論』は、『エミール』の用語解説集であって、『エミール』の一部をなす。

 『社会契約論』の中核をなす「独裁者」──神である「一般意志」を知る唯一人の「立法者」、『エミール』では「先生=指導者=私=ルソー」──の定義において、この独裁者は国民をいくら殺戮してもよいとされているが(注2)、これがフランス革命時のジャコバン党/ロベスピエールによる自国民大量殺戮を助長正当化した根拠となったし、レーニン/スターリンの六千六百万人の自国民大量殺戮や毛沢東の最低でも八千五百万人の支那人殺戮の教義となった。

 『エミール』『社会契約論』の、たった二つの本がこの世に出なかったら、フランス革命ジャコバン党独裁体制などは人類史に存在していない。また、レーニンのロシア革命毛沢東中国共産党の独裁体制も誕生していない。そして『人間不平等起源論』は、このスーパー悪魔本『エミール』『社会契約論』の基礎編に位置づけられる悪魔本。十八世紀のフランスのカトリック教会が、教会法に基づくこの三冊の焚書を躊躇い中途半端だったことが、二十世紀人類に最悲惨の爪跡を残すことになった。

 なお、ヒットラーのナチ体制だけは、ロベスピエールやレーニンや金日成のように、直接的にルソー教のドグマに従ったものではない。レーニン/ホッブス/ルソー/ムッソリーニニーチェなど盛りだくさんの素材をちゃんこ鍋で混ぜ合わせたようなものだし、ヒットラー本人も自覚していない。だが、その基軸は、やはりルソーである。

 ヒットラーもまた、道徳不在/善悪不在の独裁体制の国家を志向したのであり、これはルソーの教義が人類初である以上、広義のルソー教の系譜にあると分類して、正確さを欠くとは言えないだろう。

国民大量殺戮願望をもつ、道徳否定/善悪峻別・差別化否定論者を逮捕加罰する法律の制定は、荒唐無稽か、それとも法的正義か

 十八世紀以降とくに二十世紀において、国家権力の支配機構において自国民を含めた人間の大量殺戮が、ジャコバン党独裁国/共産党独裁の共産主義国/ナチ独裁体制国において行われたが、それらは全て共通して道徳否定/善悪不在を国是とする全体主義国家においてであった。

 この人類の歴史体験に照らせば、道徳否定/善悪不在を目指す社会革命思想の持ち主は、必ず自国民大量殺人願望を持つと断定してよいということになる。ならば、学校教育における“道徳の教科”に反対するものは必ず、この自国民大量殺戮願望を有していると推断して決して間違っていないだろう。

 つまり、ルソーの上記の三冊を推奨する(小学校から大学までの)学校教師や道徳の“教科”昇格に反対する朝日新聞の赤い狂気の記者らに対して、殺人教唆予備罪をもって逮捕加罰できる立法をする必要がある。ポル=ポトのカンボジア金日成金正日北朝鮮における自国民大量殺戮に完全共振している、これら“血塗られた大量殺人願望者”を放置する方が、法治国家日本として許されることではない。

 具体的には、(もとは尊属殺人罪の条項であった)刑法第二〇〇条に、次の条文を追加的に定める刑法改正をすれば簡単にできる。

刑法第二〇〇条 国民に対する大量殺戮を正義化する教説を流布宣伝するもの、もしくはこの種の大量殺戮と不可分である道徳否定の論を張るものは、殺人教唆予備罪として、三ヶ月以上一年以下の禁錮に処する

第二節 日本における道徳の復権に、価値相対主義の全面粉砕を急げ

 道徳の教科化が定まった十月二十一日以降、朝日新聞毎日新聞などでは、道徳の教科化は、子供たちへの特定価値の押し付けであるとか、多様な価値を認め合う自由社会の鉄則に反するとか言いつのって、ヒットラーの死において一九四五年五月に消えたはずの“ドイツ産極左思想”価値相対主義を墓場から掘り起こして振り回す。

 “価値は多様で平等に尊重されるべき”論を展開しての、道徳の教科化反対キャンペーンは、ナチのユダヤ人殺戮の論理の再燃である。一見なんでもないように見える、多様な価値の共存寛容論という猛毒の危険思想は、断固として我国から完全に排撃して一掃してしまう必要がある。古来からの伝統的な道徳は、普遍以上の絶対真理である。多様な価値の一つなどではない。水素と酸素を混ぜれば水ができ、これ以外のものはできないが、伝統ある道徳とはこれと同等なレベルの科学といって良い真理。

 こう言い直してもよい。算数や数学の教科書の内容はどの数学的問題も解がひとつしかないものばかりになっている。それは、これらの算数/数学の問題と解がすべて完全真理であるとするからである。道徳とは、この算数や数学の教科書と同じである。

 なぜなら、倫理道徳は、記録にもない記憶にない古来からの人類や民族の行為の積み重ねという体験の蓄積によって作られたもので、人間の理性を超えているし、人間の理性如きが関知できない永遠の不可知の絶対真理である。

日本語も道徳も、多様はなく唯一絶対の真理として「黙諾」を強制する学科目

 よって、このような古来からの道徳とは、正しい日本語がこれだとして教育される国語の授業と同じく「黙諾」されるべきであって、選択肢の一つとされるべきではない。況や、否定などもってのほかの無法で暴挙である。

 だが、日本では道徳否定の狂気の思想が余りに蔓延ってしまった。ルソーだけでなく、ルソーの直系たるマルクス・レーニン主義は、今なお日本の大学では支配的イデオロギーである。ために必然的に、道徳を破壊するそのことが大学教育の使命となって、その異常な教宣には改善される兆しはない。

 加えて道徳破壊の狂人ニーチェが、世界で日本においてだけ、「極左」「マルクス以上の極左」と正しく把握されず、つまり排斥されずに広く読まれるために、日本全体はルソー・マルクス・レーニン主義と“反人間の狂妄哲学”ニーチェという二つの悪魔の思想の挟撃にあって、道徳は気息奄々に窒息させられた。

 このニーチェ系譜にあるフーコードゥルーズデリダらのポスト・モダン思想が流行したことも、日本における道徳の全面破壊を加速的に推進してしまった。

 また、ルソーを開祖とするカルト道徳破壊教は、英国に渡りベンサムの手で大成され、ベンサム系譜にあるケインズ経済学の日本流入によって、さらに猛威を強くした。日本の経済学者は実はほとんどがマルクス経済学者で、ケインズ学もこれらマルクス経済学者が授業を担当しその関連論文を書きまくるので、意図的にケインズ経済学の究極の目的が道徳破壊あるいは人類からの道徳剥奪の人間改造であることが(注3)隠蔽されてきた。

 そればかりか、ルソーの嫡系ともいえる(分業論で有名な社会学者)デュルケームなる極左人士が道徳破壊を目的に書いた、反転タイトルの『道徳教育論』(一九二五年)などが邦訳され、文部省の赤い官僚の座右の書となってしまったことも、日本における道徳破壊が学校教育の主要眼目となった原因の一つとなった。

 そこで、道徳とは何か、道徳教育はどうあるべきかについて、第二稿/第三稿と連載する。第二稿の予定タイトルは「日本の道徳教科書は、どう作成されるべきか」、第三稿の予定タイトルは「道徳死守に革命フランスとの全面戦争を訴えたバークと“道徳重視国”米国を建国したハミルトン」である。第四稿は未定。

 ただ、「多様な価値を平等に寛容する」との極左ドグマの価値相対主義については、この第一稿で論じておく。粉砕しておかねばならない狂気の学説だからである。

ヒトラーユダヤ人殺戮150万人以上を応援した“猛毒思想”価値相対主義

 価値相対主義の理論は、純粋にドイツにおいて発生し発展した。マルクスエンゲルスもドイツ人であるように、ドイツ人哲学者・社会学者の九割以上は人類に害をなす。科学技術の方であれほど人類に裨益をもたらしたドイツは、哲学思想においては猛毒の悪魔ドグマばかりを発明し生産する。ドイツ近代は、実に困ったものだ。

 価値相対主義は二派あり、一派はラートブルフら、もう一派は「没価値論」のイエリネック/マックス・ヴェーバー/ハンス・ケルゼンらである。むろん今日では、この二派にわける必要など全くない。

 現在の東大法学部では未だ、スターリン主義の「ソ連人」ハンス・ケルゼンの狂った法哲学が授業されている。そこで、ケルゼンの著『デモクラシーの本質と価値』(初稿1920年、改訂1929年)から、その“怖ろしい悪の教理”価値相対主義を垣間見ておこう。のちにスターリン崇拝狂徒になるレーニン教徒ケルゼンが、レーニンとロシア革命ソ連体制を擁護すべく、西側諸国の対ソ連言論攻撃を封殺せんとして、急ぎ書いた短編的な著作である。

「絶対的真理の認識、絶対的価値の透察が存在するかどうかは、すなわち大きな疑問である。相対的真理や相対的価値のみが人間の認識にとって到達することのできるものであって、いかなる真理も、いかなる価値も──これを発見する人間と同様に──歩み去り、他に席を譲るために常に準備していなければならない」

「価値相対主義は民主主義思想が前提とする世界観である。デモクラシーは、あらゆる人の政治的意思を平等に尊重する。どんな政治的意見でも、その表現が政治的意思でありさえすれば、同じように尊敬する」(注4)。

 何という噴飯物の詭弁か。いかなる刑法上の罪を犯していないユダヤ人を、ユダヤ人からドイツ人の血統的な純潔を守る「優生保護」の理由を持ち出せば全員殺戮できるというヒトラーの狂気は、このケルゼン詭弁にかかれば「<許されない>という正論と同等に尊敬されねばならない」となる。

 “罪なきユダヤ人に対する大量殺戮は許されない”は、絶対的真理であり絶対的価値である。われわれの文明国は、相対的真理や相対的価値を規範とするような不正義を社会に充満させる異常を排斥するが故に、自由ある社会として機能している。

 ハンス・ケルゼンの著作は、どれも嘔吐を催すとんでもないものばかり。とりわけ、多数の戦後論文を蒐集した『正義とは何か』(1957年)や『純粋法学』(1934年)は、詭弁と非常識がオンパレードで、ルソーの『人間不平等起源論』が彷彿としてくる。

 ハンス・ケルゼンの価値相対主義/法実証主義(人定法主義)への全面的な批判を、日本国の自由と道徳を擁護するためにしなければならないと二十年前頃から思いつつ、未だにその研究成果を出版できていない自分が悲しい。

 ところで、ケルゼンとともに同じ価値相対主義という“世紀の謬論”の二大大家だったラートブルフの方は、ヒトラーユダヤ人大量殺戮の狂気に卒倒して良心に目覚め、自分の学者生命が毀損するのも気にせず、永年の価値相対主義/法実証主義の学説を全面放棄して転向した。一九四七年の著『実定法と自然法』(邦訳タイトル、原著は『法哲学入門』)がそれ。

 だが、一方のハンス・ケルゼンは、自分の学説がヒトラーユダヤ人150万人殺戮/スターリンの自国民数千万人殺戮を正当化しているとの糾弾・批判に耳を傾けることもなく、ルソー的狂説を発表し続けた。

 ポル=ポト派が自国民の四分の一をたった四年間で殺戮し、カンボジアがkilling fieldと世界から呼ばれていた一九七〇年代後半、次のようなご神託を垂れるケルゼンの狂著『What is Justice?』を思い出した法哲学者は私だけではなかった。

「正義の客観的な基準は存在しないし、また存在し得ない。あることが正しいとか不正であるとかの判断は、ある究極目的に関係する価値判断であり、これらの価値判断はその性質上主観的な性格をもつ感情的要素あるいは願望などの心理的要素に基づくからである」(一九四八年の論文、注5)

価値相対主義で“道徳の教科化”を反対する朝日新聞記者の禁固刑は不当か

 若い頃ソルボンヌ大学でルソーを読み漁り『人間不平等起源論』を教典と信仰したポル=ポト派の指導幹部は、自国民大量殺戮と病院破壊・郵便ポスト破壊・都市破壊こそ理想社会創造への玄関口だと狂信したが、このような価値判断が人類の名において許されるのか。正義に適うものなのか。

 無実の罪無きものを殺害してはならないことは、普遍的な絶対価値であって、一般的にはそれは法的正義という。正義の客観的な基準が共有されて初めて、われわれの文明社会は自由と美徳ある法秩序が保持されている。

 法的正義とともに道徳の至高性が社会において絶対的規範として存在しない限り、われわれは“人間的な manly”社会に住むことはできない。「無実の人を殺してはならない」法的正義が絶対価値であるように、伝統的美徳の規範も絶対であり、国民全員がこの価値観を共有をすることによって初めて、文明の国家が文明的でありうるのである。道徳の絶対価値/絶対真理は、わが日本国存立の最小限度の条件である。

 だが、朝日新聞共産主義者は、価値相対主義を持ち出して、伝統的道徳の価値観を国民すべてに強制するのは、価値多様に寛容であるべき民主主義に反すると、狂人ケルゼンの狂説を振り回す。

 道徳の教科化に反対する、ルソー/ケルゼンを宗教的に狂信するカルト信者を逮捕して数ヶ月ほど禁錮刑に処する大量殺戮未然防止の法制度は、果して不当で荒唐無稽な提案だといえるだろうか。

 

1、ルソー『人間不平等起源論』、岩波文庫、六八~九頁。

2、例えば、ルソー『社会契約論』、岩波文庫、一九一頁に、独裁者・独裁党は国民を恣意的に国外追放処分するか殺害できると、ルソーの自国民大量殺戮の教義が公然と述べられている。「主権者は、それ全体主義国家の統一イデオロギーを信じない者は誰であれ、国家から追放することができる。もしこの教理イデオロギーを公に受け入れた後で(=この全体主義国家の国民になった後で)、この教理を信ぜぬかのように行動する者がいれば、死をもって罰せられる(死刑に処す)べきである」。

3、『ケインズ全集』第九巻、東洋経済新報社、三九七頁にこうある。「富の蓄積がもはや高い社会的重要性を持たないようになると、道徳律の大きな変化が生じることになる。我々は二百年に亘って我々を悩ませてきた多くのエセ道徳律から解放される。あらゆる種類の社会的慣行および経済的慣行を、ついに自由に放棄することができる」。   

4、ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』、岩波文庫、一三〇~一頁。

5、Hans Kelsen,WHAT IS JUSTICE,p.295.

中川八洋掲示板は、amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。