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中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

ロシアの満洲侵略を大歓迎する“ロシア人”西尾 ──“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(ⅩⅢ-2)

西尾幹二の妄言狂史

筑波大学名誉教授 中 川 八 洋

この第十三章第二節は、第十三章が余り長大になるので先に分割発表した第一節の「西尾の意味不明語<戦争史観の転換>の考察」と一緒に読んで頂きたい。合体して読み直せば、二十世紀前半の“満洲に関する国際関係史の西尾流大改竄”がより鮮明に浮び上がる。と同時に、“ロシアの(自主的な)特殊工作員 西尾幹二の恐ろしい正体も、白日の下にくっきりと現れてこよう。

 さて、一九〇五~四五年の「満洲四十年史」に関する、西尾幹二真赤な嘘歴史の偽造は、『GHQ焚書図書開封』や『正論』その他のエセーで、ふんだんに展開されている(表1)。その内容は、近現代史の歴史学的な考察ではなく、ロシアの満洲奪還の対日行動すべてを隠蔽してあげる、狂気がフンプンな歴史の捏造。

 さらに、「ロシア」を「米国」に置き換え、米国がさも満洲に領土的野望があったとの真赤な嘘をでっち上げ、ロシアの絶えたことの無い満洲侵略の意思を不在にするマジック・ショーまで展開する。どう贔屓目に読んでも、モスクワのKGB第一総局SVRが書いたとしか思えないシロモノだが、“ロシア人”西尾幹二の面目が躍如である。

 なお、小学生でも間違わない、国際聯盟を「国連」としたり、「国連軍」が聯盟にあったとする(注1)、無知・無教養を絵に画いたような、西尾の読むに耐えない珍奇な誤謬の大洪水には卒倒するが、ここでは触れない。

 

表1;満洲にかかわる、西尾幹二のスーパー嘘歴史(参考例)

出版物

章、節、頁

備考

GHQ焚書図書開封』第6巻

第二章、56~64頁。

 

GHQ焚書図書開封』第9巻

第一、第三、第四章。

 

『正論』二〇一四年二月号

「<天皇>と<人類>の対決」前編、

159頁下段~161頁上段。

2013年12月8日の講演

『正論』二〇一三年九月号

日本民族の偉大なる復興」、71頁。

 

 

一、ロシア満洲侵略史──ロシアの満洲侵略すべてを隠蔽する西尾幹二とは、「日本人」ではむろんなく、熱烈な愛露心に燃える“凶悪なロシア人”

 ロシアの満洲侵略の本格化は(注2)、「遼東半島を還付せよ」と日本を脅迫した一八九五年の「三国干渉」に始まる。続く満洲侵略は、翌一八九六年五月の露清間の「同盟密約」であろう。これによってロシアは、満洲里からハルピンを経て沿海州のポクラニチナヤを結ぶ、北満洲を東西に横断する「東清鉄道(東支鉄道)」の敷設権と経営権を「露亜銀行」に附与することを清国に合意させた。

 露亜銀行とは、形式的には「合弁会社」。だが、ロシア民族の常識においては、他国との「合弁」など存在せず、あくまでも「ロシアの独占企業」となる。ロシアにとって、<露亜銀行とは、ロシア側の全額出資者であるロシア政府の政府機関>であった。

 東清鉄道は、シベリア鉄道の開通一九〇二年とほぼ同じ、一九〇三年には開通した。それはまた、ロシアの満洲攻略の基盤の完成であった。日本としては、国家の存亡をかけた日露戦争(一九〇四~五年)をするほかなかった。なお、ハルピンより南下して遼東半島の旅順にいたる「南北支線」に関する権益も、ロシアは、一八九八年の「遼東半島租借条約」で獲得した。これによって、南満洲もロシアの支配地となった。ロシアは、対日/対清“脅迫外交”「三国干渉→東清鉄道敷設権密約→遼東半島租借条約」で、一気呵成に満洲を清国から強奪するのに成功した。

 当時のロシアの鉄道敷設権とは、鉄道の経営権だけでなく、鉄道周辺の広大な領土(「附属地」)の主権がロシアに譲渡される特別なもの。だから、この「附属地」では駐兵権が認められ、実際に清国が武力で鉄道を奪還せんとしても、清国を完全敗退させるだけの軍事力をロシアは展開していた。これに加えて、義和団の乱を鎮圧してあげるとの口実で、ロシアは南下させた軍事力をさらに強大化した。一九〇〇年秋の頃には、満洲全土は完全にロシアの実効支配するところとなった。

 誰でも知っているから蛇足だが、「三国干渉」(一八九五年四月)とは、ロシアが旅順港を手に入れるべく、ドイツとフランスを誘い、勝利したとはいえ日清戦争の終結で気息奄々の日本を威嚇し、「清国から得た遼東半島の権益すべてを手離せ!」と、すでに締結されていた「日清講和」下関条約へ干渉したこと。外務大臣陸奥宗光は、さすが大秀才だけあって、「ロシアは、日本がNO!と言えば、引っ込む」と正しく洞察したが、伊藤博文総理や他の高官たちは、ウラジオストックのロシア太平洋艦隊の出動をちらつかせるロシアにビビッて右往左往し、遼東半島を清国に「還付」した。

 この結果、遼東半島は三年後の一八九八年にはロシアのものとなり、旅順港の裏山二〇三高地に世界最強の要塞が建造され、日露戦争時、この攻略に日本の将兵六万人という巨大な戦死傷の犠牲を払った乃木希典の203高地攻略戦、一九〇四年八~十二月)。「三国干渉」への妥協屈服は、対ロ外交における、日本の痛恨の失敗であった。

 ロシアには、絶えず戦争覚悟の拳を挙げるのみ。その時ロシアは、必ず、脅しを中断する。このためには、日本は、“自衛の対ロ戦争”の準備に日々怠らないこと。これのみが、極東で日本が平和に生き残る唯一の道である。

ポスト日露戦争期における、日本を「反米/反英」に転換させたロシアの対日謀略工作

 日露戦争で日本に敗北したロシアは、南満洲のロシア権益すべてを日本に割譲したポーツマス条約)。東清鉄道南北支線のうち、約三分の二に当たる長春-旅順間の鉄道は、この南満洲に属するから自動的に日本に譲渡された。日本の「満鉄」とは、これであった。

 しかし、領土拡大の民族文化しかないロシアにとって、退却とは、相手を一時的に油断させる戦法の一つであって、必ず再侵略してくる。この原則に従い、ロシアは敗戦ポーツマス条約締結)の直後から、南満洲の奪還に取り掛かった。

 南満洲を再占領・獲得するためにロシアが採った方策は、主として、第一期は謀略外交。第二期は、最終の軍事力投入を前提にした非公然の謀略工作であった。

 第一期は、一九〇五年九月から一九一七年十一月まで。第二期は、一九二三年一月のヨッフェ来日から一九四五年八月の対満洲/対日本侵略まで。一九三一年秋の満洲事変は、このロシア対日謀略工作第二期の最中に勃発したのである。

 第一期のロシアの対日謀略外交は、表2に示すように、協定という形でその成果は如実に現れた。表2が示す核心は、日露戦争からわずか十一年しか経っていない一九一六年には、ロシアが日英分断/日米分断に成功した事実であろう。裏を返せば、日本はロシアの差し出す媚薬を嗅いで頭が狂って、日露戦争で日本を助けてくれた世界で最も大切な、日本の同盟国・英国と日本の最大の友邦・米国とを、自ら疎隔し敵視するという、自国の国益を毀損する信じがたい狂気の道を選択したのである。

 一九三七年から完全な“スターリンの犬”となって、日本は、アジア共産化のため、大東亜戦争という日本史上例がない祖国叛逆の悪魔の戦争に走ったが、その嚆矢は、日露戦争の勝利に浮かれて“馬鹿アホ国家”に堕して、日本がロシアとの間で締結した「三協約/四秘密議定書」に始まる。

 

表2;露のアジア侵略の基盤づくりの“ロシアの犬”となった日本

1907年7月

第一次日露協約

外務大臣は、林菫

1907年7月

第一次日露秘密議定書

同上

1910年7月

第二次日露協約

外務大臣は、小村寿太郎

1910年7月

第二次日露秘密議定書

同上

1912年7月

第三次日露秘密議定書

外務大臣は、内田康哉

1916年7月

第三次日露協約

外務大臣は、石井菊次郎

1916年7月

第四次日露秘密議定書

    同上

 

 この七つの対ロ従属協定がどれほど日本の国益を害するものであったかは、例として第三次/第四次日露秘密議定書(注3)を垣間見るだけでも明白。第三次日露秘密議定書で、日本は、外蒙古(モンゴル)すべてと内蒙古の五分の四をロシアの権益下と認めた。その代償は、ロシアが内蒙古五分の一の権益のみ日本に認める不平等密約だった。

 そればかりか、一九一二年の第三次日露密約は、日本が同盟国・英国に叛旗を翻す裏切りの性格をもつものだった。なぜなら、モンゴルについては、英国は、「チベットは英国圏」をロシアが完全に認める代償として、ロシアの権益下とするのを認める、そのような「蒙古/チベットの交換的取引き」の交渉中であった。

 つまり、日本のロシア従属外交は,対ロ交渉中の英国の足を引っ張り、チベットへのロシアの影響浸透を容認する行為。しかも、前年一九一一年に、日英同盟条約を改訂したばかり。日本の対ロ宥和外交は、日本が同盟国を英国からロシアへ転換する勢い(慣性力)となっていた。

 第四次日露秘密議定書は、第二条で、米国を日露共同の「仮想敵」と定めた。この対米敵視が、一九四一年四月の日ソ中立条約の締結、そして同年十二月の対米太平洋戦争の開戦となった。その結果は、ロシアの企図する通り、日本は満洲を丸々ロシアに貢ぐことになった。

 このことは、一九〇七~一六年に日本が締結した「対ロ七協約・秘密議定書」こそは、日露戦争の最大の勝因である、英国との同盟関係および米国との友好関係を日本自らが弊履のごとく捨てる逆走外交の罠に、ロシアに唆され、落ちたことを意味する。一言で言えば、ポスト日露戦争のたった十年間で、日本とは、ロシア外交に騙され完全な“ロシアの犬”になってしまったのである。

 ロシア人は、将来の被侵略国の頭を痺れさせ狂わせ、自ら<どうぞ侵略して下さい>の情況を創る特殊洗脳能力を、世界唯一に先天的に有している民族である。ロシア民族の他民族を騙す能力は、六千年間の人類史上、他に類例がない。技術革新の天才エジソンの天才さを凌ぐ、未曾有の“外交天才民族”、それがロシア人である。ロシア人にこの魔性の特殊才能がある以上、接触する形態の対ロ外交交渉を日本は決して選択してはならない。

 レーガン大統領が第一期目の四年間は厳守した対ロ“無交渉の交渉”こそは、対ロシア外交の範である。この対ロ“無交渉の交渉”を信念にしていた“対露外交の達人”が日本にもいた。首相の吉田茂である。「対露外交は、ロナルド・レーガン/ウィンストン・チャーチル/吉田茂に学べ」とは、最高の外交格言であろう。

 ともあれ、一九四五年八月の日本国の亡国を導いた、日本の自殺外交は、その三十年前の一九一二年の第三次日露秘密議定書と一九一六年の第四次日露秘密議定書で定まっていた。この重大な歴史事実を、すべての日本人は肝に銘じておかねばならない。どんなささやかな外交も、根本が間違っていれば、三十年先の祖国の存亡を左右して、国家を地獄に引導する。

 一国の外交には、日本中から発掘した大秀才のみに担当させる制度・慣行の確立が望まれる。ただの「凡庸な秀才」(百番以内の東大法学部卒レベル)では、現在の情況においてよりまし(better)な選択を思考できるが、三十年先を考えることができるのは大秀才のみ(東大法学部卒で言えば三番以内が最低条件、これ以上の追加条件があるが割愛)

日本を“ソ連の属国”に改造する対日工作基地を東京に認める日ソ基本条約(国交回復)

 共産国となり世界の孤児となった、(「戦間期」ともいう)両世界大戦間のロシアは、対日攻略の主軸を、表には見えない非公然の謀略(covert-activities)に移した。その嚆矢は、日本のレーニン崇拝/スターリン崇拝の政府高官第一号である後藤新平を、ロシア工作員に仕立て上げるのに成功したことで本格的に始動した。ヨッフェの来日および、後藤とヨッフェらの連携工作によって日ソ基本条約が締結された(一九二五年)。これによってソヴィエト・ロシアは東京の狸穴に対日謀略本部を立ち上げることができた。

 だが、ロシアに無知な日本人は、この対日謀略本部を、他国の大使館と同じ“大使館”と誤認して、表看板どおりの「ソ連大使館」だと勘違いした。翌一九二六年には、東京帝大の学生で賑わう神田の書店街は、マルクス/レーニン/ブハーリン/スターリンの翻訳本が、平積み台のほとんどを占めた(注4)。ロシアは、たった一年で、日本の主要出版社をことごとく籠絡した。

 そして、日本の外交官と陸軍エリート将校を、ロシア工作員リクルートすることに全力をあげた。その結果が、たとえば、一九二八年の張作霖爆殺事件(注5)や一九三三年の日本の国際聯盟脱退(後述)など、日本は自殺外交・自殺戦争ばかりを選択していく、“愚行の十七年史”となったのである。

 近年、一九二八年の張作霖爆殺事件は、日本と支那の離間・分断を狙ったロシアの謀略であることについては(注6)、ようやく歴史の常識として日本でも広く知られるようになった。ロシアの爆殺目的は、蒋介石支那統一への躍進が一九二六年から始まったが、支那全土に反日運動を起こして、日本が対抗的に軍事介入をして、ついには蒋の国民党政府と日本とが対立抗争して、漁夫の利的に毛沢東共産党支那を支配させるのが狙いであった。

 国際聯盟からの脱退で、日英同盟の代替機能を果たしていた国際聯盟を失って、日本外交は、孤立するばかりか世界情勢が全く見えない“全盲外交”へと陥った。これは、ロシアスターリンが日本と東アジア情勢を操るための謀略だった。スターリンの、日本を“世界の孤児化”へ誘導する政策の極めつき、それが聯盟脱退だった。

 すなわち、戦間期の日本とは、反米と反英で独自外交をしている積りで、実はスターリンの犬”として、スターリンが命令するままに国家の外交と戦争を決定していた。戦間期日本とは、名実ともに、“ロシアの属国”であった。民族的な先天的資質の悪さから、英米なしに日本は独立した外交はできない。

二、「満洲国承認/上海事変/聯盟脱退」は、スターリンが操った“日英分断”策

 本稿第十章「松岡洋右とその外交」で、日ソ中立条約の締結問題とともに)松岡の聯盟脱退に焦点をあてた。ここでは、この聯盟脱退に関して、オモテの日本政府の意思決定過程を、ウラのスターリンの謀略工作の視点から検証することとしたい。

 スターリンにとって、日本を国際聯盟から脱退させる好機は、笑いが止まらぬほど早期にやってきた。石原莞爾らが決行した満洲事変と満洲国建国である。これを活用すれば“日英分断の特効薬”ができると、スターリンの対日謀略は全力疾走する。

 なお、満洲事変前後の、日本政府や日本陸軍が決定し実行した主要な歴史的事件の多くは、「スターリン(主犯)によって企画され、実行者が日本(実行犯)だった」といえる。裏返せば、スターリンの対日工作がなければ、それらは起きていない。たとえば、聯盟脱退は、日本だけなら、していない。    

 

表3;スターリン謀略の歴史的事件をわざと解明しない、日本の近現代史学

主要な歴史的事件

首謀国;ロシアor日本

目的、日本側首謀者その他

張作霖爆破事件、1928年6月

ロシア(スターリン

支那の「反日」を激化。張作霖は、反共・反ソ。

満洲事変、1931年9月

日本(石原莞爾

1918~27年に実行すべき。

満洲国建国、1932年3月

日本(帝国陸軍

   同上 

満洲国の日本承認、同年9月

ロシア(スターリン

聯盟脱退と日英分断

上海事変、1932年1月~3月

ロシア(スターリン

同上、日本側首謀者は森恪石川信吾(海軍軍令部参謀)

聯盟脱退

ロシア(スターリン

白鳥敏夫森恪(脚本)、松岡洋右(主演)。日英分断と日本の“世界の孤児”化

東清鉄道の対日売却、1935年

ロシア(スターリン

日本の対ロ油断を醸成

対支全面戦争の開始、1937年7月7日。

ロシア(スターリン

近衛文麿首相は、スターリン命令を忠実に実行した。

ノモンハン事変、1939年6~9月。

ロシア(スターリン

ソ連GRU工作員関東軍第23師団長・小松原道太郎ソ連と通謀し、(日本側大敗北の)八百長戦争をした。ソ連工作員辻正信も一味。日本は「南進」に転換。

南部仏印進駐、1941年7月。

ロシア(スターリン

近衛文麿、米国への全面戦争の事実上の宣戦布告。

海軍と企画院による対米戦争開戦

ロシア(スターリン

“海軍の尾崎秀実石川信吾海軍省軍務第二課長)等。

 一部留保で基本的には賛成すべき、日本に有利な『リットン報告書』をなぜ日本は拒絶したか

 日本の民族系は、西尾幹二を見れば明らかだが、知識がないだけでなく頭が極度に悪いことをいいことに、日本人のなした過去の外交的判断や決断のすべてを検証も考量もせず、鸚鵡返しに「正しい」とする。理由は、「祖先や先輩がしたものだから」と、これだけ。民族系論客の思考力はゼロ状態といってよい。

 たとえば、一九三二年一月から一九三三年三月にかけて国際聯盟脱退を目がけて、日本国が大暴走した愚行を逆さにも肯定する民族系の短絡思考は、この典型だろう。聯盟脱退は日本の国益に重大なレベルで違背するばかりか、その事由となった『リットン調査団報告書』は、日本側の顔を充分に立てており、これに反対する合理的な理由は全くない。だから、「何か変だ」と思うのが常識。

 昭和天皇は、『リットン報告書』を受諾せよ、と側近牧野伸顕西園寺公望ほか)に命じている(注7)。国際情勢と国益を正確無比に透視される“天才大帝”は、かくも賢慮きわめる御判断をなされていたのである。『リットン報告書』(一九三二年九月三十日に日本政府受領)は、その結論部分の「第九章 解決の原則及び条件」を次の通りにまとめている。

満洲事変は、一国家の国境が、隣接国の軍隊によって侵略(violation)された、そのような単純なケースではない。満洲には、世界の他の部分との類例が見られない、多くの特殊情況がある」

「一九三一年九月の満洲事変以前への復帰は、解決策とはなりえない。満洲における日支間の現状の紛糾は、満洲事変以前の情況によって発生したのだから、一九三一年九月の時点に戻す策は、紛糾を繰り返す結果を招来するだけである」(注8)。

 この基本視点に立つものであるから、世界全体が日本に轟轟たる非難をしている最中を勘案すればなおのこと、日本が『リットン報告書』に反対する合理的な理由などはどこにもなかった。特に、「侵略にあらず」「旧に戻す必要も無い」と断定していることで、日本の主張の八十%を取り入れている。

 これは、満洲事変を「不戦条約違反だと糾弾しつつ、不戦条約違反ではない」と言っているのと同じ。何とまあ、見事な玉虫色の大岡裁きであることか。日本として何一つ不平を述べる内容にはなっていない。だから、ジュネーブを含め在ヨーロッパの日本の外交官全員が、『リットン報告書』に消極的な賛成で対処すべきと考えたが、正論だった。

 ただ、ポスト満洲事変の、満洲にかかわる具体的な国際法上の地位と政治機構について「留保」すべきか否かだけは、議論があってもよい。『リットン報告書』は、支那から完全に分離した「主権ある満洲国」を認めてはいない。支那の潜在主権を認めているからだ。

 それでも『リットン報告書』は、実際上の統治機構を満洲自体に「自決させる」としている。原語はManchurian Autonomy。日本にとって、「自決させる」は、基本的には充分に満足できるもの。報告書全体を再読三読すれば明白だが、『リットン報告書』とは、日本が「採択してよい」と賛成票を投じさえすれば、その後は日本の思惑通り万事うまくいくようになっている“日本びいきの文書”だった。

 『リットン報告書』の採択後、日本は緩やかに徐々に“満洲国の既成事実化”を進めていけるようにしているからだ。Manchurian Autonomyとの表現は、満洲支那から事実上分離すべきと考える「親日」リットン卿の、その明察する智慧が迸っている。ただただ感服するほかない。

満洲における政府はどうあるべきか。支那の主権及びその行政的保全と一致しなければならないが、東三省の地方的な情況と特徴に応じた工夫がなされる、広汎な範囲の自治(Autonomy)が確保されるようにする」

「この満洲の自治政府は、軍政ではなく文民の統治機構とするが、良き政治の本質的な要求を満足するよう構成され運用されねばならない」(注8)

 “良き政治 good government”という言葉で、「漢民族支那流の政治では、悪い政治になるから、満洲統治は不適格だ」とさらりとその排除を示唆するなど、教養ある英国貴族の巧緻な深慮は、単純思考の日本人の及ぶところではない。

日本国の聯盟脱退を操った、外務省「ソ連工作員細胞」のトップ白鳥敏夫──“反米狂”松岡洋右と“反日の巨魁”白鳥敏夫靖国神社祭神だが、正常か!

 国際聯盟脱退という、日本外交史における“日本の過誤”を臍をかむ思いで省察するとき、私が真っ先に手にするのは、時の聯盟事務局次長・杉村陽太郎(外務省出身、リオン大学で博士号)の回想記『国際外交録』(注9)である。杉村は、日本の聯盟脱退を阻止せんとして果しえず、その無念において本書を聯盟脱退直後に執筆した。彼の痛憤の情に、私も共感する。 

 歴史学的に研究さるべきは、日本が、脱退の必要性が全くないのに、脱退しなければ世論が収まらない情況を日本自身がわざわざ創っていった不可解な情況についてであろう。つまり、表層に現れた歴史事実からでは説明がつかない、表面から地中深くに潜む歴史の真実を剔抉する学的な作業である。

 なお、私の立場は、石原莞爾満洲事変と満洲国建国を、そのやり方や動機あるいは時期については賛同できないが、基本的には支持するものである。故に、私が外務大臣であれば、満洲事変と満洲国建国とを既成事実として世界の黙認するところにもっていくべく、米国を含めた轟轟たる対日糾弾の声を沈静化させることに全知全能の智慧を絞っただろう。

 だが、日本は、この逆に走った。世界中にこだまする轟轟たる対日糾弾という火にわざと油を注ぐことばかりして、地球がより激しく対日糾弾の嵐に包まれるようにした。この逆走の対外行動の筆頭第一は、全く不必要かつ有害無益な上海事変を起こしたこと。続く第二は、(十年後でもいい、少なくとも一九三四年頃までは)絶対にしてはならない満洲国承認の日満議定書を調印したこと。第三は、満洲事件と満洲国建国とを時間をかけて世界に黙認させていくには、国際聯盟という場こそ絶対に不可決な道具(舞台、劇場)なのに、逆さにも聯盟脱退をしたこと。

 つまり、聯盟脱退とは、満洲国を建国し発展させていく日本の国策として最悪の選択。烏滸の沙汰の極み。当時の日本政府の選択肢は、『リットン報告書』を非難しても最後には賛成票を投じるのが絶対的な定石で、それ以外の策などあろうはずもない。

 あのような禍機(=世界中で日本糾弾の嵐)に見舞われたときに、狂乱の世論に抗してもこの絶対定石を一途に守り抜くことは、陸奥宗光的な冷静沈着な人格と高度な見識の人物しかできない。だが日本は、あろうことか、最も不適な“無頼漢(ならず者)松岡洋右をわざわざ日本全権に選んだ。

 東京の日本政府部内に、聯盟脱退の方向に日本を暴走させようとする、目に見えない大きな勢力が蠢いていたことは、この異常な人選一つで証明されている。松岡を全権にすべく奔走したのは、とりわけ外務省の白鳥敏夫だった(注10)

 松岡洋右の英語力は、ただ饒舌なだけ。外交文書を読解する英語力はさっぱりの偏頗なもの。ジュネーブは、英語が母国語的な世界。会話力がどんなに下手でも内容さえ周りを圧倒する高いレベルで優れていれば説得力には不自由しない。また、説得力とは尊敬されることが第一条件。

 さて、聯盟脱退を画策した筆頭が夜郎自大となっていた陸軍なのは、特に不可解ではない。だから歴史学上の問題は、陸軍の行動ではない。個々の外交官の大半が聯盟脱退反対なのに、外務省全体が率先垂範して聯盟脱退のラッパを吹いたのは、いったんどういうわけなのかが、問題の核心。歴史学とは、このような不可解を解明することであって、表層の歴史事実の羅列であってはならない。況んや、西尾幹二のように恣意的な事実のつまみ食いなど歴史学ではなく三文小説である。

 外務省が聯盟脱退の旗振りとなった原因には諸説がある。例えば、外務大臣内田康哉が、満鉄総裁上がりで、「焦土外交」演説(注11)に見るごとく、熱烈な満洲事変支持者だったからだとの説。だが、この説はおかしい。なぜなら、満洲事変/満洲国建国を支持するなら、なおのこと聯盟加盟継続に固執するはずである。「満洲国」を国際的に容認させ安全かつ着実に発展させるに、国際聯盟こそ不可欠な舞台装置だからだ。

 しかも、フランスとともに国際聯盟の事実上のオーナーである英国は、調査団(五名)の団長に「親日」のリットン伯爵を選択し、かつ米国の対日世論を押さえ込むためにこの調査団に聯盟加盟国でない米国から「委員」をわざわざ組み入れる念の入れ方であった。実際に定まったアメリカ「委員」は、F・R・McCOY陸軍少将。どうも「親日」の米国軍人だったらしい(未確定)

 外務省をして聯盟脱退に集約した筆頭人物は、特定されている。時の情報部長であった白鳥敏夫である。白鳥の暗躍は常軌を逸していた。彼の聯盟脱退のイデオロギーは、その回想的著書『国際日本の地位』(一九三九年刊)でも、隠してはいない。しかも、レーニンの『帝国主義論』の用語はふんだんに使われており、教条的なマルクス・レーニン主義者であることも隠してはいない。

 白鳥の配下に、もう一人飛びぬけて真赤な「ソ連工作員」がいた。情報部第三課長(国内宣伝課長)コミュニスト佐藤忠雄である。佐藤の著『日本外交論』は、白鳥以上にレーニン『帝国主義論』そのもので、一読して卒倒する。

 白鳥の腹心であった佐藤とは、日本をなんら益しない国際聯盟中傷に酔い痴れ、脱退を正当化する嘘八百の詭弁を弄しているだけ。こんなトンデモ“ソ連人”が日本の外交官にいたのかと思うと、<大東亜戦争スターリンの戦争だった>歴史の真実に納得がいく。

聯盟は英仏米の傀儡なり 英仏米三国の専横により弱者圧迫をなすがごときは、平和と正義を標榜する聯盟自体の存在的意義を根本より覆す」

「帝国(日本)の主張を容認し得ざる聯盟に止まることは不利益なるをもって、速やかに脱退するのが最も賢明なる策なることは明白」

「本年(一九三三年)二月の聯盟総会の勧告に屈服せんか(すれば)、帝国(日本)の威信は丸つぶれとなり第三流国になりくだる…。」(注12)

 極め付きな佐藤の嘘は、聯盟脱退後の日本と東アジア情勢を逆立ちさせている次の一文でも露わである。彼の「祖国」ソ連のために日本国民を騙して逆走外交に誤導する「反日」日本人を決して政府部内に入れてはならない教訓として、“嘘つき”佐藤忠雄の次の一文を読まれたい。一九三三年三月以降の支那が日本を尊敬し強国として恐れたのであれば、一九三七年からの日支戦争は起きていまいに。

「日本の聯盟脱退は支那朝野をして驚愕せしめたと同時に、日本の真に強国なるを悟り、ついに聯盟に頼るの政策を捨て、むしろ日本を尊敬するの念を抱かしむるに到りたる」(注12)

 序なので、大東亜戦争中の外務省で暗躍していた「ソ連工作員の外交官」の一部を表4に紹介しておこう。外務省「ソ連細胞」のボスだった白鳥敏夫は、スターリン教徒の靖国神社宮司松平永芳によって、一九七八年、靖国の杜に松岡洋右とともに)祭神として祀られている。靖国神社は、民族系コミュニストだった松平永芳以降、共産主義者に牛耳られているが、日本人はいつまでこの異状を放置する積りなのか。

 

表4;外務省の主要な「ソ連工作員」たち

 

太平洋戦争中の主な役職

備考

白鳥敏夫

イタリア大使→衆議院議員

聯盟脱退時の、外務省情報局局長

伊藤述史

情報局総裁→貴族院議員

聯盟脱退時の、聯盟日本政府代表部事務局次長。戦後、GHQがパージ。(参考)事務局長は、脱退反対の沢田節蔵。

尾形昭二

調査局第二課長(ソ連課長)

戦後に吉田総理が、「赤」として追放

杉原荒太

大東亜省総務局長、戦後に参議院議員

鳩山一郎北方領土交渉の罠に嵌めた河野一郎と並ぶ国賊

佐藤忠雄

――

国際聯盟脱退で暗躍、1931~3年は外務省情報局第三課(国内宣伝課)課長。白鳥の忠実な同志、一九三六年死去。

 

スターリンと森恪が起こした上海事変(1932年1月18日~3月3日、停戦協定は5月5日)

 上海事変は、世界をゆるがせた満洲事変の劇的な歴史性に隠れて、それが大規模な戦争であったことすら直視されず、この「戦争」の重大性が等閑視されているきらいがある。満洲事変の戦死傷者は一一九九名だが、上海事変は陸軍二二四二名/海軍八四九名の総計三〇九一名で(陸軍参謀本部満州事変史』第一巻)満洲事変の約三倍である。

 上海事変の定説・通説は、一九三二年一月、関東軍司令部参謀の板垣征四郎(陸軍大佐)奉天特務機関の)花谷正(少佐)らが脚本を書き、上海駐在副武官の田中隆吉(少佐)が実行犯となって、上海で戦争そのこと自体を起こすために、ならず者支那人暴徒を雇って日本人僧侶ら五名を襲撃したことで始まったとする。確かに、この襲撃後、日支双方の暴力事件が激発し上海が騒擾状態となり、ついには第一遣外艦隊司令長官・塩沢幸一が一気に軍事介入して本格的な戦争になった。続く二月には、海軍が「第三艦隊」を、陸軍が第九師団を核にした「上海派遣軍」を、上海攻撃に追加投入して、日支間は本格的な戦争へとエスカレートした。

 これが、この第一次上海事変の戦闘経過について、戦後の日本や他国の研究者によって確定した戦史研究の定説・通説。が、上海事変をなぜ日本側が起こしたのかについての戦争目的究明の軍事史研究はほとんどなされなかった。なぜか。

 「上海事変は、国際世論が沸き立つドハデな日中戦争を英国の租界がある“アジア経済の要衝”上海で人為的に起こし、日本が聯盟その他の国際場裏で世界中から指弾される孤立情況を醸成し、結果として日本を聯盟から脱退させ日英分断を図ろうとした“スターリンの謀略”だった」が真相だろうと考えるのが、戦後二十年ほどは日本の学界や旧軍人の間では大方の常識だった。

 だが、日本の大学は、共産党が支配しており、“ソ連の謀略”を隠蔽秘匿することは絶対任務。もしこのような視点で第一次上海事変軍事史研究をすれば学界から干されるし、若ければ大学教師のポストを得ることはできない。そうこうしているうちに戦後も五十年が経ち、一九九五年頃には世代交代もあって、この軍事史研究の問題意識そのものが日本から消滅した。

 ともかく、現在わかっているのは、「スターリン→森恪/石川信吾→海軍軍令部→塩沢幸一」の命令ルート。第一遣外艦隊の異状な行動は、これで説明がつく。陸軍の方は「スターリン→森恪→参謀次長・真崎甚三郎→上海派遣軍の編成&出撃命令」という命令下達ではなかったかと推定される(注13)。

 “日本版レーニン革命”二・二六事件(一九三六年)の背後の主犯はコミュニスト真崎甚三郎だが、皇道派の総帥・真崎がソ連GRU工作員であったのは間違いなかろう。なお、「上海派遣軍」の司令官に“常識人”白川義則が選ばれたのは、スターリンや森恪らにとって大ミステークだった。

 また、上海事変の停戦協定締結から十日後に発生した五・一五事件犬養毅首相が暗殺されたのは、彼が上海事変の不拡大派だったこととも関係があろう。

 上記の海軍・陸軍内のソ連工作ルートに加え、「田中隆吉/板垣征四郎/花谷正“ソ連細胞”」へのスターリン命令の経路解明については、現在、鋭意、取り組んでいる。

石原莞爾を除き帝国陸軍にも日本にも不在だった、「満洲国を維持する」堅い信念

 当時の日本が、もし“独立の満洲国”を安全にかつ確実に発展させたいと真剣に考えていたならば、満洲支那とが別の国家であることを世界に示すことに腐心し、満洲からの支那への軍事介入は絶対にしない自制に、全精力を注ぎ込んだはずである。たとえば、満洲支那の駐留日本陸軍は、直接的な相互行き来すら慎み、その必要がある場合、いったん東京その他の日本本土を経由するという煩を厭わなかったはずである。

 だが、戦前の日本陸軍には、このような考えは無い。すなわち、満洲国を死守せんとする考えなど、実は帝国陸軍にはきわめて稀薄だったということである。

 もっと具体的に言えば、満洲国を独立国家としたいのが本心なら、満洲駐留の日本陸軍は、満洲から支那へと「国境」を越えてはならないから、万里の長城以南へは一兵も渡ってはならない大原則を守ったはずである。だが、帝国陸軍満洲支那とを峻別することがなかった。ならば、中華民国側が、「満洲は、支那の一部で中華民国の東三省である」と主張しても、これを反駁することはできない。

 特に、「日満支一体論」とか、「大東亜共栄圏」とかは、独立国家としての満洲国を廃絶する、極左共生イデオロギーだから、“満洲国つぶし”の方こそ、日蓮宗の狂信者で頭が半分オカシイ石原莞爾を除けば、一九三〇年代日本において無意識のコンセンサスで潮流であった。「満洲は日本の生命線」は、日本の対外宣伝スローガンであって、日本国自身では本気の言葉でもなかった。

 「満洲国」を一九一八年に皇帝・溥儀を奉戴して建国し、東アジアにロシアと支那とを分断する、強力なる“恒久バッファー国家”を創るべきだったとの考えは、日本人の中では、どうやら私一人かも知れない。確かに、地球上から跡形もなく消え去った“幻の満洲帝国”とその初代皇帝・溥儀ならびに皇弟・溥傑にいつまでも執着している日本人を、私は、私以外に誰一人として知らない。

 私が満洲国の恒久化に拘泥するのは、まずは、それが満洲族の固有の領土であり、北方領土奪還の論理と国際法の法理において共通するからである。また、マッキンダー博士/チャーチル/スパイクマン博士の英米系地政学を継承する学徒として、独立の満洲国こそロシアの南下を防ぎ、東アジア秩序の要石だと確信するからである。

(附記)「上海派遣軍」司令官白川義則・陸軍大将に、「上海事変を、国際聯盟総会での対日糾弾を避けるべく、(一九三二年)三月三日までに停戦せよ」と命じられたのは、昭和天皇であった。白川は、参謀本部と大喧嘩しつつ、ひたすら昭和天皇の(公的な奉勅命令ではなく、私的な)ご命令を果さんと、三月三日、一方的に停戦を発表した。この日、日支両軍は、事実上の停戦に至った。

 昭和天皇は、上海で翌月の四月二十九日に朝鮮人尹奉吉が投げた爆弾で命を落とした白川義則を悼み、靖国神社にご親拝され、次の御製をお詠みになられている。

「をとめ(乙女)らの ひな(雛)まつる日に、いくさば(戦場)を とどめし(止めし)いさを(勇男、白川大将のこと) 思いてけり」(注14、丸かっこ内中川)

三、ロシアの満洲侵略を「米国のそれ」に転嫁する、西尾の歴史捏造テクニック

 これまで、満洲にかかわる歴史を大まかに鳥瞰したのは、言うまでもなく、西尾幹二の荒唐無稽な偽造歴史を読者が瞬時にそうと見破れるようにする基礎知見を提供するためでもあった。

 西尾幹二は、満洲の国際関係史に関して、表1に列挙した論考はそのほんの一部だが、眉を顰めたくなる異様かつ異常な妄論狂説を大仰しく展開する。それらは、西尾には、満洲にかかわる現実におきた、国際関係史上の歴史事実をより正しく観ようとの意識が全くないことを、明らかにしてくれる。

 そもそも西尾には、支那から分離した“主権ある国家”「満洲帝国」を、恒久的に存続させ発展させたいとの“愛・満洲”の精神が一かけらも無い。満洲問題を、一杯飲み屋の酔っ払い以下の下劣な戯言で、ただ茶化し愚弄して悦に耽る。

 いやそれ以上に、満洲を論じる形で、日本国に唾を吐きかけ日本人の不幸や悲劇を楽しんでいる。嘘だと思うなら、ソ連満洲侵攻に一直線につながる松岡洋右の国際聯盟脱退を擁護しての、西尾の次の記述をどう解釈するのだ。

「私共は松岡洋右についてさんざんひどい評価を聞かされてきました。(しかし、ソ連満洲侵攻を手引き、日本人約七十万人がロシアに残虐に殺害されるのを誘導した)松岡洋右は、(日本国にも日本国民にも)<何も悪いことしていない>」(注15、丸カッコ内中川)

 「満洲にかかわる歴史を大改竄してやるぞ!」との、西尾幹二の「犯罪」の意気込みを、これほど如実に表すものはないだろう。国際聯盟こそが、満洲をソヴィエト・ロシアから守る国際機構であった。「満洲帝国」とラスト・エンペラー溥儀を守るには、日本外交の骨髄として、国際聯盟を支え続けることに手を抜いてはならなかった。松岡の聯盟脱退こそ満洲国消滅の一里塚となったのだから、松岡は万死に値する。

 また、ソ連軍の満洲侵攻の直接的な引き金となった、松岡/白鳥/近衛の三人の策謀である日ソ中立条約の締結(一九四一年四月)もまた、一九三三年の聯盟脱退の延長にあって、それと強固に接着し連続している。

 上記の引用文中、中川が挿入した数字「七十万人」は、シベリア強制連行一〇五万人のうち五十万人の日本男児が死亡し(阿部軍治『シベリア強制抑留の実態』)、レイプ等で殺された日本の婦女子は二十万人にのぼるが、この数字の総計である。日本人七十万人を大量虐殺したソ連満洲侵略の共犯者”松岡洋右をもって、「何も悪いことしていない」と嘯けるのは、西尾幹二の人格が、ユダヤ人大量殺戮のヒトラーと同じだからである。西尾幹二の顔が狂犬病の凶暴な犬顔なのは、大量殺人鬼特有の悪魔性の人格が、四十歳を過ぎた頃から彼の顔を徐々に造ったと考えられる。

大東亜戦争は、満洲問題の戦争だった」だって(大笑い)

 ともあれ、荒唐無稽な西尾幹二“お笑い満洲漫談(ジョーク)を垣間見ていくことにしよう。まず、お笑い芸人としての西尾幹二の“バカアホ歴史”から始める。

「一九三〇年代に日本が満洲を死守しようとし、アメリカがこれを拒否したことが大東亜戦争のすべてだった」(注16)

 大東亜戦争とは、一九三七年七月の北京郊外・盧橋溝事件をきっかけとして近衛文麿が独断で蒋介石の国民党政権に対しておっぱじめた戦争。満洲問題は、いっさい関係していない。小学生でも知っている歴史のイロハではないか。この日支戦争に関して、米国は日本が戦争遂行上必要とする石油を輸出してあげており、同時に行っていた援蒋策を考えれば、奇妙な中立政策を採り続けた。

 米国がついに日本の大東亜戦争に我慢できなくなったのは、フランス領インドシナの南半分サイゴンに侵攻したからで、ここに日米両国は、戦争か否かの重大な局面に立った。「満洲」問題からではなく、日本の「南進」つまり「南部仏印進駐」が日米軍事衝突の直接の原因である。これも小学生が知っている歴史のイロハ。

 しかも、一九三七年の日支戦争の勃発の頃には、米国は満洲のことなどすっかり忘れるという情況で、この故に、対日最後通牒ハル・ノート」に、満洲に関する事柄は一字も無い。事前におおむね推定されていたので、「ハル・ノート」を読めば、日本政府部内で、その受諾が大勢になるのは必定と踏んだ山本五十六は、「ハル・ノート」がワシントンで日本側に手渡される二十五時間前に、択捉島の単冠湾に集結させていた連合艦隊をしてハワイ奇襲攻撃に出撃させた。

 二十世紀世界史上の問題の一つは、米国が満洲のことなどすっかり忘れたことにある。もし満洲のことに米国が拘泥していれば、ルーズベルト大統領はスターリンの要求のままに「ヤルタ秘密協定」(一九四五年二月)の署名などしていない。「ヤルタ秘密協定」がなければ、樺太や国後・択捉島そして得撫島以北の)千島列島は、ポツダム宣言で“日本領のまま”となっていただろう。

 だが、一九三三~六年の間に、理由はともかく、米国の脳裏から満洲が消えていた。日本が満洲帝国を堅持しようと思うならば、「米国に満洲を忘れないよう、満洲に米国の権益を充分に与えておくべき」がベストの策であった。日本は、一九〇五年にハリマンの満鉄共同運営の要求を蹴って以来、満洲問題に絡み、対米外交を四十年間も逆さに転倒していた。

 上記引用文における西尾の嘘は、これに留まらない。日本には「満洲死守主義」が存在したかどうか疑わしい。おそらく、存在しなかったと考える方が真実に近かろう。なぜなら、満洲を死守するなら、万が一にも、日支戦争をしていない。

 満洲死守論の石原莞爾は、参謀本部作戦部長として、首相の近衛文麿と激突しつつ、満洲をまもるべく日支戦争拡大に断固反対し、その即時終息を画策したが、陸軍は近衛首相の意向に従い、石原莞爾の方を馘首した(一九三七年九月末)

「聯盟の、満洲事変での対日厳罰主義は、ヒトラー対策だった」だって(大笑い)

 西尾幹二の“お笑い満洲漫談”を続けよう。すでに概観したように、満洲事変に関して、聯盟は、日本に対し「満洲国は、認めないが、認める」「不戦条約等の国際法違反だけど、違反でない」という、摩訶不思議な玉虫色の『リットン報告書』採択でお茶を濁そうとした。これがどうして、「対日厳罰主義」なのか。それなのに西尾にかかると、次のように真赤な嘘ばかりの全くの小説になる。

ヒットラーを牽制するために、満洲事変を引き起こした日本に見せしめの厳罰主義を執行しなければうまくいかない、ということになって、ヒットラーを抑えるために、日本に<勧告>で済ませるといわれていたものを<経済制裁>へ格上げしたんです。<勧告十ヶ条>というのも出されました」

「その第十条には、国連(ママ)が国際監視団をつくるというんです。どれぐらいの軍隊をつくるつもりがあるのか、国連(ママ)にはどこにそんな金があるのか。ナチスの躍進でヨーロッパはいま戦乱が迫っているというのに、国連軍(ママ)をつくるなんて余裕もなければ…」(注17)

 妄想と狂気で支配されている西尾の頭は、一般の正常人には理解不能である。

 「対日厳罰主義」ならば、日本が脱退しようとしまいと、一九四一年七月末から始まる石油禁輸や在米/在欧資産の凍結などの経済制裁と同じレベルの対日制裁ぐらいは、この一九三三年に実行しているはず。だが、聯盟は日本を何一つ罰しなかった。つまり、聯盟も米国も、満洲事変と満洲国建国の日本に対して無罪放免にした。これが、唯一の正しい歴史事実。西尾幹二の狂気の歴史偽造は、余りに明白。

 しかも、「ヒットラーを抑える」とか、「ヒットラーによって、ヨーロッパは今戦乱が迫っている」とか、それらはすべて一九三八年の「オーストリア合邦」と「ミュンヘン会談でのチェコ・ズデーテン割譲」以降の話ではないか。

 西尾幹二は分裂症のために、時間軸が存在しない。一九三二~三年と一九三八~九年は、ゴッチャになって同年となる。連盟での対日糾弾の時期とヨーロッパでナチの侵略行動の懸念が認識される間には、丸七年も相違する。「一九三八年九月-一九三一年九月=七年間」である。だが、狂人・西尾の頭では「七=〇」なのだ。

 一九三三年一月にヒトラー政権が誕生して以来、英国などヨーロッパ各国は、ヒトラーを“平和の使者”として歓迎するのが絶対多数の趨勢だった。ために、ヒトラーを危険視しナチの侵略性を洞察し、このことを英国民に警告したウィンストン・チャーチルは、一九三九年初頭まで、友人も国民の人気もことごとく失った。ケンブリッジ大学の学生が、「ヒットラーノーベル平和賞を与えよ」と決議したのは、一九三八年秋だった。

 西尾幹二の精神錯乱はひどく、彼の歴史偽造は半端ではない。全く歴史的に無関係なヒトラーを持ち出すなどSF小説もどき。そればかりか、上記引用文で、西尾は、『リットン報告書』第九章に記述されている「解決のための十の原則&条件」を、『リットン報告書』とは別の独立の『勧告十ヶ条』が準備されていたとの嘘話に創作している。西尾の病気である妄想幻覚は、これほどひどい。

 怠惰で(学者の基準では)本を読まない西尾幹二は、『リットン報告書』を読んだことがないし読んでもチンプンカンプン。だが、そんなことより、西尾は、「国際監視団をつくる」とか「国連軍をつくる」とか、第九章の「解決のための十の原則&条件」すべてを妄想の嘘話と入れ替えている。西尾には、一片の正常がない。

 これほど重篤の妄想や幻覚を口走る以上、『正論』編集長・小島新一は、昵懇な西尾幹二を急いで精神病院に強制入院させるべきではないのか。産経新聞社は、“狂人”西尾幹二の口から出任せ・嘘八百の原稿を校閲せずに、嘘歴史を公害排水のごとくに垂れ流す西尾幹二と組んで、ユスリタカリに専念する小島新一を懲戒解雇すべきだろう。

満洲を舞台にアメリカの敵はロシアから日本に変わる」だって(ゾッと戦慄!!)

 『GHQ焚書図書開封』第六巻では、「満洲問題で、アメリカは敵をロシアから日本に変えた」という奇想天外な嘘歴史を、西尾は延々と記述する(注18)。だが、満洲問題から仮想敵をロシアから米国に一八〇度も逆に変更したのは日本。このことは、本稿の表2を含めて、「一、」で概観した通り。また、日本政府は、第一次「帝國国防方針」で(一九〇七年)、米国を公式に仮想敵国と定めた。

 すなわち、正しい歴史は、日露戦争後の日本は、不必要にも巨額な海軍予算を正当化するために、敵をロシアからアメリカに変えた」である。そして、「満洲に対するロシアの軍事脅威を忘れてしまった」である。つまり、西尾幹二は、「日本」とすべきところを「米国」に置換する、転倒の歴史偽造を行っている。分裂症は、主語や主体が浮遊し「他者」にぶっ飛んで入れ替わるが、この症状であろう。

 ともあれ西尾幹二は、ニーチェと同様、恩義とか感謝とかの道徳を破壊つくし絶滅して、“無道徳な社会”(=人間性ゼロの非人間からなる社会)をつくりたく、日露戦争で日本に全面協力した米国へ感謝する正常・健全な日本人を嘲笑する。

(米国の巨額の外債集めなど)で日本は米国を友好国だと信じてしまった。満洲を狙っていたアメリカにとってロシアが邪魔だっただけ。嗚呼、日本人は“お人好し”ですね」(同)

 西尾幹二に潜むこの種の悪魔的人格をこれまで察知できなかった、人間力劣悪な西尾ファンは、自らの未熟さを大いに恥じ、自省して頂きたい。 

 さて、満洲に関する米国経済界の資本参入に関して、その是非を論じる場合、国益に沿った基準を再確認しなければならない。日本の国益の筆頭は、言うまでもなく、満洲へのロシアの再侵略をどう防ぐかであって、これに優るものは無い。これに関し、当時の政府高官で最も的確な判断をしたのは、元老井上馨であった。

 彼は、鉄道王ハリマンからの満鉄日米共同経営の提案をもって、南満洲防衛の最高の方策だと喝破した。総理の桂太郎とハリマンとの予備協定の覚書交換は(一九〇五年十月十二日付け)、この井上の建策による。井上馨はこう考えた。百点満点の判断である。

「日露講和談判が成立したとはいへ、未だハルピンには数十万のロシア兵が居り、虎視眈々としてわが態度を注視してゐる有様であり、いつ逆襲の挙に出るか不明な状態にあり、仮に(今直ぐの)逆襲の虞はないとしても、その将来、ロシア国はことを構へて復讐戦に出ることは必死である。これを阻止するには、第三国と共同の利害関係をもつことが永遠の極東平和の良策である」(注19、丸カッコ内中川)。

 だが、外交問題では当代随一だった小村寿太郎は、実は、経済がさっぱりの経済音痴だった。経済のパイは投下する資本で増大するのがわからない小村は、次のように考え、桂に詰め寄り、桂・ハリマン予備協定を破棄させた。

満洲において数十万の血を流し、幾億の国帑を費やし、ポーツマスの談判において百難を排してようやく獲た南満洲経営の大動脈を他の手中に委し、軍事および経済上の利益を一朝にして放棄する結果となる」(注20)

 米国の巨大資本が投下されれば、その分、満鉄の利益は大きくなる。日本の取り分は半分だから、利益が日本単独経営より三倍になれば、日本は単独経営のときに比して一・五倍の利益を得る。しかも、軍事力の展開は日本のみになっているから国防上は、何ら変化はない。

 こんなうまい儲け話を小村が理解できない理由について、小村が父親(小藩の家老で勘定奉行。廃藩置県後、藩の借金をすべて背負う気風のよさが仇となる)が残した大借金で、外交官時代のほとんどを含め極貧の生活しか知らない超エリートだったからだ、とするのが定説である。

 小村の大ミステークによってハリマンの満鉄共同経営をふいにした日本だが、満洲に英米資本が導入される、日本にとってのまたとない好機が、四年後の一九〇九年に再び訪れた。英米の資本により「錦愛鉄道」敷設計画である。

 これは満洲の南にある州と最北端の黒竜江の町・琿を結ぶもので、一見すると満洲鉄道と並行して競合するようだが距離が離れており、実態的には競合はしない。

 しかも、北満洲のロシア権益地区を南北に横断するので、これを使えば、日本はロシアに戦争を仕掛けて、ロシアを満洲から完全に追い出し、北満洲を日本権益下におくことができる。すなわち、一九三一年九月の満洲事変を、二十年ほど早く実行できる軍事態勢の一つを、英米の資本でつくってもらえるという棚からぼた餅の話であった。

 当然、ロシアは錦愛鉄道計画を猛然とつぶしにかかった。ところが日本は、逆さにも、南満洲への再侵略を企図するロシアに組して、英米資本の錦愛鉄道計画をぶっ壊してしまった。

 一九〇九年頃の日本はすでに堕落の兆候が露わで、「南満洲をロシアの復讐戦から守ろう」という国防意識が潰え去り、いわんや「北満洲からロシアを追放して、満洲全土を日本の権益下におこう」という東アジアの安定的な秩序構築の思想などひとかけらも政府部内には残っていなかった。“親ロ一辺倒”の山縣有朋と“恐ロ病”の伊藤博文という二人の元老の害毒であった。

 両名の、一九三八年の英国首相チェンバレンの対ヒトラー宥和政策と全く同じく、対ロ宥和政策(appeasement-policy)が、一九〇七年以降の日本の満洲政策の根幹をなすに至っていた。一九〇七年に締結された第一次日露協約ですら、ロシアが日本外交の柔軟と臨機応変を剥奪するものとなっていた。

 ハリマンの満鉄共同経営の申し入れ/英米資本の錦愛鉄道敷設計画(ノックスの満洲鉄道国際化提案)を日本が蹴った延長上に、四十年後の一九四五年八月、ソヴィエト・ロシアの満洲侵略という事態が必然的に繋がっている。一九四五年九月二日、満洲全土と樺太を占領したスターリンは対日戦争勝利演説で、こう述べた。

「一九〇四年の日露戦争でのロシア軍隊の敗北は、国民の意識に重苦しい思い出を残した。この敗北は我が国に汚点を印した。わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日が来ることを信じ、待っていた」

「四十年間、われわれ古い世代はこの日を待っていた。そして、ここにその日が訪れた。今日、日本は敗北を認め、無条件降伏文書に署名した」(注21)

 ハリマン提案を良しとした井上馨の見識(一九〇五年)がいかに正確無比であったかは、四十年後のスターリン演説を予見して的中したことで明らかだろう。この意味で、小村寿太郎は、痛恨の外交ミスを犯したのである。山縣有朋/伊藤博文の対ロ宥和政策がいかに逆立した、とんでもない間違いだったかは、一九四五年八月以降、満洲へのロシア侵攻で殺された日本人七十万人の死において異論の差し挟む余地はない。

 ところが西尾幹二は、一九四五年八月に起きた満洲国の消滅と七十万人の鬼哭啾啾に頭を垂れることもなく、「オレ様は時間軸を制御できる神様だ!」とばかり、二〇一四年の世界情勢を一九三二年に戻して、ハリマンの米国や錦愛鉄道計画の英米をもって「帝国主義だ」「満洲への野望だ」と罵倒して恍惚となっている(注22)。西尾のこのような立位置は、満洲を守る意識が無い「無国籍の“非・日本人”」でなければありえないし、満洲をロシアに貢ぎたい一心の「ロシア人」信条なしには形成されない。

 『GHQ焚書図書開封』第六巻で、西尾が一九三二年刊のトンデモ本『日米戦ふべきか』を絶賛する狂気は、精神分析すれば、このようなものとなろう。 

 

第二節

1、西尾幹二「<天皇>と<人類>の対決、前編」『正論』二〇一四年二月号、一六〇頁。

2、「満洲」とは、清国を創建した辮髪の満洲族のもともとの支配領域を指し、広大な黒竜江北側を含んでいた。これが“正しい満洲”である。だが、黒竜江のこの北側の広大な満洲族の固有の領土は、ロシアに強奪されていく。一六八九年のネルチンスク条約は、おおむね“正しい満洲”のロシアとの国境を画定したと考えられる。それは、北の国境をスタノボイ山脈で露清が分かつものであった。

 しかし、一八五八年の愛琿条約で、黒竜江の北側すべての満洲の地がロシア領となった。面積的には、“正しい満洲”の約半分に当たる。それが、現在のロシア東シベリアの中核部分となった。

 しかも、清国が黒竜江の東側でウスリー川と間宮海峡で囲まれる、祖先からの故地(固有の領土)で、満洲の中でも遼東半島と並び)最高の戦略的要衝の地である沿海州を、愛琿条約をもってロシアは“露清雑居の地”にした。

 さらに、それからわずか二年後の一八六〇年、ロシアは、この沿海州を強奪し自国領とした。北京条約である。これによって、ロシアは軍港ウラジボストークを獲得し、直ちに太平洋艦隊の母港とした。東アジアの軍事バランスは劇的に変化した。香港の英国の東洋艦隊を北方から圧迫して、東シナ海の“制海 シー・コントロール”を英露が折半する勢いになっていったからである。

 一八六一年、ロシア太平洋艦隊対馬を侵略し占領したが、英国艦隊がこの日本の難儀を救った。英国東洋艦隊の存在(プレゼンス)なしには、日本の明治近代化も日清・日露の両戦争での勝利もなかった。それはともかく、対馬占領事件を通じて、東シナ海での英国の勢力圏はかろうじて対馬まで、と一八六一年時点の英露は確認したことになる。

 それから三十年後の「三国干渉+遼東半島租借条約」は、ロシア太平洋艦隊が、渤海湾東シナ海を“ロシアの海”とすることだから、英国にとって呆然とする事態の発生だった。日英の国益は完全に一致し、一九〇二年の日英同盟となった。この年はまた、シベリア鉄道が開通した時でもあった。

3、中川八洋近衛文麿ルーズヴェルトPHPの、一八六~九八頁を参照のこと。また、第三次日露秘密議定書については、『日本外交史』第九巻、鹿島研究所、一四三~七四頁を参照のこと。第四次日露秘密議定書については、『日本外交史』第十巻、鹿島研究所、三一四~九三頁を参照のこと。

4、昭和時代初頭の出版情況については、中川八洋山本五十六の大罪』弓立社第八章、二六二~八四頁に詳述されている。

5、張作霖爆殺事件は、実行犯はソ連工作員である。だが、このソ連の犯罪を隠蔽すべく、総参謀長クラスの関東軍の高官ソ連工作員は、因果を含めて河本大作(陸軍大佐)に“身代わり犯人”になるよう命令し、河本も積極的にその役を引き受けた。河本大作の義弟共産党員でソ連工作員であったように、河本大作自身も共産主義者でソ連工作員だったのは事実だろう。

 張作霖爆殺は、張作霖が“反共反ソ”でソ連にとって邪魔だったことと、このテロで日本と支那の離間を煽動できる一石二鳥として企画実行された。短い解説が、中川八洋地政学の論理』、徳間書店、三八三~四頁にある。

6、「張作霖爆殺はソ連の謀略と断定するこれだけの根拠」『正論』二〇〇六年四月号、「張作霖を<殺った>ロシア工作員たち」『正論』二〇〇六年五月号、等。

7、『昭和天皇独白録』、文春文庫、三〇頁。そこには昭和天皇が「私は<報告書>をそのまま鵜呑みにして終ふ積り」とご回想されておられれる。

8、外務省仮訳『日支紛争に関する国際聯盟調査委員会の報告』、国際聯盟協会、一九三二年十月。

9、杉村陽太郎『国際外交録』、中央公論社、一九三三年七月刊。

10、山浦貫一編『森恪』、原書房(一九八二年に)復刻再刊、七四九頁。

11、外相内田康哉の「焦土外交」演説とは、一九三二年八月二十五日、衆議院における施政演説のあとの質疑で森恪・議員の質問に、満州国承認を勝取る決意を表明するに、「国を焦土と化しても辞さない」と表現したことを指す。『日本外交史』第十八巻、三三六頁。

 なお、この森恪の質問も、白鳥敏夫が原稿を書いた(上掲『森恪』)

12、佐藤忠雄『日本外交論』、国際経済研究所、一九三七年、八五~九二頁。この引用箇所の執筆は一九三三年。

13、上掲『森恪』、七三八~九頁。なお、“帝国海軍の尾崎秀実”石川信吾については、中川八洋山本五十六の大罪』、弓立社、九八~一〇四頁を参照のこと。

14、上掲『昭和天皇独白録』、三四頁。

15、上掲「<天皇>と<人類>の対決 前編」、一五七頁。

16、西尾幹二日本民族の偉大なる復興 下」『正論』二〇一三年九月号、七一頁。

17、上掲「<天皇>と<人類>の対決 前編」、一五九頁下段~一六一頁上段。

18、西尾幹二GHQ焚書図書開封』第六巻、徳間書店、五六~六四頁。

19、井上馨侯伝記編纂会編『世外井上公伝 第五巻』、マツノ書房、一一一頁。

20、外務省編『小村外交史』、原書房、六六六頁。

21、茂田宏編著『日ソ基本文書・資料集』、世界の動き社、五九頁。

22、西尾幹二は無知・無教養の塊で、日露戦争の戦費調達の日本外債を最初に大量に購入した米国人を、「ユダヤ人の大富豪シフ」ではなく「ハリマン」だと、中学二年生が習うイロハ的知見も欠くお粗末さ。「ハリマンは、日露戦争中、日本の戦時公債を一人で大量に引き受けてくれた人です」(上掲18の六〇頁)だって(苦笑)

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