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中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

“歴史の偽造屋”西尾幹二の妄言狂史(Ⅲ)──“天皇制廃止の畸形バイブル”西尾著『皇太子さまへの御忠言』

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 甘い言葉は、暗い道と同じく気を付けなければならない。「忠誠」や「忠孝」を連想させる二文字「忠言」があるからと、危険視しない読者が多い。しかし、西尾幹二の『皇太子さまへの御忠言』は、甘い言葉を巧みに操った、つまり、「忠諌」を装った、あからさまな“天皇制度廃止の新型デマゴーグ本”。それ以外の何ものでもない。

  西尾幹二は、かつて一九九八年頃だったか、私中川八洋に直接こう言い放った。「僕は、天皇制がどうなろうと、まったく関心ないよ」。続いて、「天皇制廃止の動きに対抗して、それを全力で粉砕しようとする(中川さんのような)考えはさっぱり理解できない」と付け加えた。確かに西尾は、一九六七年、同趣旨のことを自白している。

「ぼく自身の個人的感覚に則していえば、天皇になんら愛情も無いという無関心な感情ですね。…ぼくの場合、天皇制に対する感情は非常に稀薄ですね」(注1)。

 天皇に対して、「愛情」などという国語表現はおぞましい間違い。正しくは「恋闕 れんけつ」というべき。だが西尾幹二は常日頃から、「天皇・皇室への我が国の伝統的用語は不愉快で使う気になれない」と、公言して憚らなかった。

 西尾の皇室用語への憎悪感情は半端ではなく、皇室用語を正しく用いる日本人への激した蔑視感情は、「コミンテルン三十二年テーゼ」を奉戴する共産党員と寸分も変わらない。たとえば、「皇室」「皇族」などの一般的な言葉ですら、西尾は身の毛がよだつと言う。かつて西尾が、「臣下」「臣民」などの用語を使う自分の友人を嘲笑し面罵する、その現場に居合わせたことがある。

  西尾が共産党員と同じ天皇制廃止論者なのは、『皇太子さまへの御忠言』の中で、「私も天皇制廃止に賛成するかもしれない」と明言している(注2)。このように、天皇制廃止の新型レトリックが満載の、不敬きわめた皇室讒謗の書である、西尾著『皇太子さまへの御忠言』の解剖カルテをここですぐにも展開したいのは山々だが、本稿は西尾の歴史偽造を考察する論考シリーズだから、それは別の機会に譲り割愛する。

 まずは“世紀の有害図書”『皇太子さまへの御忠言』がさも歴史事実に従っているかに偽装するための、西尾特有の数え切れない“歴史の偽造”を剔抉し、その一部を紹介することにしよう。

 “極左反日」の毒書”『GHQ焚書図書開封』の歴史偽造を分析するのは、閑話休題させていただきたい。

無断借用と改竄引用を常習とする西尾幹二の、その悪質な手口とは? 

 肩書きは学者でも、西尾幹二は、実態が売文業者だからだろう、学者なら守る最小限のルールすら無視するのが常。だから『皇太子さまへの御忠言』でも、一片の良心すらない、恥じなき西尾の非・学者性があらわである。

 例えば、その一三八~九頁で、一九四五年一月二十五日における、敗戦を迎えて昭和天皇の退位(「落飾」あそばされて仁和寺へ入御)岡田啓介/米内光政/近衛文麿/岡本慈航仁和寺の門跡)四名の、近衛の京都別邸での密議を、西尾は言及している。だが、西尾は、この四名の密議について引用した文献資料を明記していない。歴史の偽造を職業とする西尾らしい、二つの悪意(理由)による。

 西尾の第一の悪意は、引用資料を明記すると自分の嘘歴史への歪曲がバレルし、自分のデタラメ創作(捏造歴史)の部分が発覚するので、それを妨害し回避するためである。すなわち、自らの計画的犯罪を隠蔽するためである。

 第二の西尾の悪意は、読者をして西尾自身がさも“歴史の通常の研究者”かに錯覚させるため。西尾は歴史音痴で、その知見は小学校五年生程度。それを専門家に見せるには、盗用盗作しかない。盗用盗作の犯罪が露見するのを防ぐには、引用文献を明記しないのが肝要。

 第一番目の西尾の悪意の例。

 西尾は、この四名の密議内容について、「岡本慈航の書き残したものがあり仁和寺としては落飾した昭和天皇を金堂にお住み頂く計画をたてていた…」と書いている(注2)。

 だが、岡本慈航は、本件に関して何一つ書き残していない。「岡本慈航の書き残したものがあり」は、西尾幹二が分裂症の幻覚か、作為か、いずれかによってデッチアゲた嘘歴史である。なぜなら、西尾幹二は、上記の四名の密議部分については実際には、ジャーナリストが書いた『天皇家の密使たち』から引用している(注3)。

 この本のこの部分は、一九五二年に岡本を引き継いだ後任の門跡・森諦円へのインタヴューに基づいて書かれている。そこでは、森が「岡本慈航はいっさい記録を遺さなかった」と述べたとはっきり明記している。

 つまり、西尾幹二は、「岡本慈航はいっさい書き残さなかった」を「岡本慈航が書き残した」と、一八〇度逆に偽造したのである。事実を一八〇度逆に転倒する西尾の分裂病の幻覚(妄想思考)はかくも強度である。西尾の嘘つき常習は、分裂病からのもので、単なる嘘つき癖ではない。

 自分を“歴史の専門家に見せる演技”のために西尾幹二が創る嘘話も、金日成が自分の出生をすべて嘘で粉飾したやり方と酷似する。『皇太子さまへの御忠言』で西尾は、次のように書いている。

「この最初の退位計画は、細川護貞、木舎幾三郎、森諦円、酒井美恵子ほかの証言によるが、戦後永い間、極秘のままだった」(注2)。

 木舎は、そのような「証言」などしていない。木舎著『続・政界五十年の舞台裏』は、一九四五年一月二十五日の翌二十六日、皇弟・高松宮殿下を近衛文麿が、前日と同じ京都別邸にお招きしたとのみ書いている。

 それどころか、木舎は「近衛文麿公と高松宮殿下との間にどんな話が交されたかは知らない」とはっきり書いている(注4)。むろん近衛文麿は、前日の「天皇仁和寺入御(退位)」の密談内容を高松宮殿下にご報告申し上げたはず。だが、木舎が「知らない」のは当然だろう。近衛が木舎ごときに、そんなトップ・シークレットを洩らす訳がない。

 「知らない」という事実は、西尾が言う「(証言する前提の)知っている」の逆である。かくも一八〇度逆に事実を転倒する西尾の幻覚は、これほどひどい。西尾幹二の分裂病は重度。

 西尾の言う「細川護貞の証言」とは、おそらく『細川日記』にある、「天皇は)単にご退位ばかりでなく、仁和寺あるいは大覚寺にお入りあそばされ、戦没将兵の英霊を供養あそばされる(覚悟をしておかれるべきだ)」を指しているようだ(一九四五年一月六日付け、注5)。ならば、これは「証言」ではなく、「日記の記述」。「日記の記述」を「証言」とは、事実の改竄であって、正常な学者は決してしない馬鹿げた歪曲である。しかも、細川護貞は、一九五三年年頭には出版している。

 このような上記引用文中の「極秘のままだった」という西尾の記述は、「オレ様がこの歴史を発見した」を連発する“歴史のペテン師”西尾が、自分を歴史の専門家かに見せる宣伝用の真赤な嘘の創作。

 近衛文麿自身も、生前の一九四五年九~十月、同年一月に京都別邸で密談した「天皇退位」について、外国人記者にベラベラと喋ったようだ。新聞からでも推定できる(注6)。西尾は、歴史の研究者なら必ず行う新聞チェックをしない癖がバレた。真赤な嘘の創り話「戦後永い間、極秘のままだった」という、西尾の歴史偽造の手口もバレてしまった。

 実は近衛は、敗戦直後の一九四五年八月にも、「国体に関し、国民投票をやつて、天皇制を確立するのがよいと思う。陛下昭和天皇がご退位になつて、明仁皇太子殿下が即位され)高松宮が摂政におなりになると良いと思う」と公言している。一九五二年刊の矢部貞治著『近衛文麿』にもそう記録されている(注7)。

 戦後すぐに公開され、過去数十年にわたって専門家にはごく当り前の事実が、西尾にかかると、どういうわけか「戦後永い間、極秘だった」となる。西尾は、“歴史事実”「天皇退位の運動は、終戦と同時に、すべてがオープンで、かつ激しくなった」を、一八〇度逆に転倒する歴史偽造をしている。

 このように西尾とは、「全聾」と「被曝二世」を売り物にした“作曲の大ペテン師”佐村河内守と瓜二つにそっくり。これほどの嘘つき常習の“歴史の大ペテン師”西尾幹二を「歴史の専門家」かに錯覚して、西尾を取り巻いている輩がいまだ多い。彼らのほとんどはコリアンだというが、「無教養きわめる最低のクズ人間たち」である。その中に、もし日本人がいるなら、北朝鮮に移住していただきたい。

 なお、筆者は、「酒井美恵子」なる人物については不知。西尾幹二は、仮に「酒井美恵子の証言」なるものがこの世に存在するなら、その文献資料を明示せよ。

歴史の専門家ならば、高橋紘ら『天皇家の密使たち』の転倒記述を批判する! 

 上記の西尾幹二の歴史偽造は、西尾自身が極度の歴史音痴で、歴史小説家以下であることを明らかにする証左ともなっている。なぜなら、西尾は『天皇家の密使たち』の重大な嘘記述を見抜けない。むしろ、歴史偽造屋同志の共鳴なのか、高橋らの嘘歴史にわが意を得たりと拍手している。

 高橋たちの嘘記述の中で最も非難されるべき箇所は、戦後日本で共産党ソ連が全力をあげてデッチアゲた“近衛文麿の虚像(巨大嘘)”の上塗り嘘の部分。言うまでもない。

近衛文麿昭和天皇への自殺要請は、)千余年にわたって天皇家を守り続けてきた“側近中の側近”としての近衛文麿の使命感の現われ」(注3)。

 近衛文麿とは、スターリン狂徒で共産党正式党員の河上肇の愛弟子の一人であるように、教条的なコミュニスト昭和天皇(一九一八年に処刑されたニコライⅡ世に倣って)処刑して天皇制を廃止することも目的として、近衛文麿は、対支那戦争の開始を決定し対英米戦争の開始も決定した。この歴史事実は、一九三六年の二・二六事件および一九三七年から一九四一年の歴史年表を一瞥するだけで自明ではないか。

 要するに、近衛文麿は、“アジア共産化の革命”の手段として大東亜戦争をおっぱじめた張本人である。日本にとって最凶最悪の国家叛逆者である。

 そのような、皇室の廃絶を狙ったコミュニスト近衛文麿の“昭和天皇自殺強要への執念”を、共産党員の高橋・鈴木は、逆さにして「皇室護持のため」と嘯く。この嘘歴史は、日本共産党やそれが支配する朝日新聞が、一九四五年八月のポツダム宣言受諾以来、日本人を洗脳すべく全力をあげた、近衛文麿美化の偽情報工作の延長上にある。

 そして西尾は、ソ連/共産党製の“近衛文麿美化/讃歌”嘘歴史に満腔の賛意を表している。ニーチェ主義者は必ず共産主義者に共振する。西尾幹二もまたその例外ではない。

 なお、“近衛文麿美化/讃歌”という歴史偽造の偽情報工作は、戦後七十年間途切れることなく今も執拗に続いている。札付きロシア工作員工藤美代子と鳥居民が書いたトンデモ本『われ巣鴨に出頭せず』(二〇〇六年)近衛文麿「黙」して死す』(二〇〇七年)は、一九四五年の敗戦直後から連綿と続く対日情報工作が未だ終っていない証左の一つ。

 西尾幹二は、“KGB第一総局工作員工藤美代子を「新しい教科書をつくる会」の理事に選び、昵懇の間柄である。西尾幹二のような人物を、レーニンは“役に立つ白痴”と定義したが、そうでないかも知れない。西尾幹二の実態がヴォランティアの「無意識・自主的な(unwitting)ロシア工作員」だとすれば、“プロのロシア工作員工藤美代子に対し、同志意識が働き親密になったとも考えられるからである。

 ソ連のNKGB工作員だった近衛文麿は、スターリンに命令されるがままに、中国共産党をシナ全土の支配者にすべく)日支戦争を開始し、日本に“敗戦革命”を起こすべく国土・国力を疲弊させるため対英米戦争に日本国を誘導した。

 だが、日本の敗戦を期して、ソ連は、“用済みになった”近衛文麿東京裁判でベラベラと真相を語ることを怖れ、自殺による殺害を計画した。アンコン号での近衛訊問は(一九四五年十一月九日)、近衛に自殺を納得させる脅迫であった。同年十二月十六日に近衛が服毒した青酸カリは、“ソ連工作員”牛場友彦が持参したと考えられる。ソ連工作員の近衛が、それまで自分の取り巻きだった、同志のソ連工作員たちに殺されていく過程は、祖国叛逆の因果応報的な天罰だろう。この経緯は、拙著『山本五十六の大罪』(注8)に詳述している。

 なお、矢部貞治コミュニストソ連工作員、東大教授)は、近衛文麿の自殺を奇貨として、一九四五~六年、風見章毛沢東の対日工作員コミュニストらとともに、「昭和天皇は、近衛に倣って自殺しろ」と宣伝して回っていたようだ(注9)。

昭和天皇監禁所の松代大本営を美化する高橋らを糾弾しない西尾幹二 

 高橋紘らの『天皇家の密使たち』にはもう一つの恐るべき歴史偽造がある。昭和天皇の監禁所として建設が進められた「松代大本営」について、粗末な仮御所しか作る計画がなかったのに、「“地下宮殿”」などと、宮殿がさも建設されていたかに超美化する記述になっている(注10)。

 舞鶴山(白鳥山)の麓に半地下で造られる予定のわずか三棟の仮御所は、「ロ号倉庫」の一部で、田舎の官舎のような建造物が計画されていた。とても仮御所とすら言えない、いわんや“地下宮殿”などとはほど遠い代物だった。高橋紘らの造語“地下宮殿”は、天皇制廃止のコミュニストたちの、天皇に対する野卑な嘲笑が聞こえてくる詐称である。

 しかも、この「松代大本営」は、東京空襲など全く予想すらしていなかった一九四四年四月、昭和天皇暗殺団(一九四五年八月十四日宮城クーデター)の一人でコミュニスト井田正孝・陸軍少佐の発案。「井田→富永恭次(陸軍次官)東條英機(陸軍大臣兼首相)」で決裁された。井田は、ソ連とも通じていたスターリン教徒。昭和天皇・皇后ほか皇族を一網打尽にして日本に進駐してくるソ連軍に渡すことを計画し、その監禁所「松代大本営」を考案したといえる。

 読者が誤解してならないことは、東京空襲は一九四四年十月に始まった事実。つまり、この年の四月時点、B29の存在を日本の陸海軍とも全く知らなかった。「松代大本営」はまた、皇居を空襲から守れなくなったので疎開のため造営され始めた訳でもない。皇居は一九四五年五月に空襲で多くを消失したが、米国は皇居への爆弾投下を厳しく禁止しB29は一発の焼夷弾も投下していない。皇居のはるか南からの(南風に乗った)火の粉に対して皇居内の消防体制が杜撰に過ぎて延焼したのである。

 西尾幹二の歴史知見はかように貧弱で、共産党員・高橋紘の『天皇家の密使たち』を丸写しはしても、わずかのクリティーク(批判的批評)もできない。だから、西尾幹二が歴史について書いた本すべてが、噴飯物有害図書になるのである。

 問題の核心は、正常な文筆家は歴史知見ゼロならば、歴史にかかわる本など決して書かないのに、なぜ西尾幹二だけは、その逆に、粗製乱造の歴史関連書を出版し続けるのか、であろう。それは、西尾が「(どんなに間違いだらけ/嘘だらけだろうと)オレ様が書いた歴史は、オレ様が書いたが故に“正しい歴史”“最高の歴史”なのだ」と、自分を無謬の神だと、分裂病の狂人に特有な“極度の驕慢と自惚れ”に自己耽溺しているからである。

 「自分は神だ」と狂信した歴史上の人物は多いが、ルソー、ロベスピエールフーコーの三名を例示しておこう。三名とも重度の精神分裂病では定評のある人物。フーコーに至っては、自らカミングアウトした。西尾幹二も、そろそろフーコーに倣って、重度の分裂病の持病を自ら告白(カミングアウト)する時ではないのか。

歴史文献を学術的には読めない西尾は、ドイツ語と英語の区別もしない

 さて、もう一つ。『皇太子さまへの御忠言』に、西尾の知ったかぶりのお粗末がばれた記述がある。

「『天皇制』の表記は、コミンテルンの指令書にでてくる、打倒すべき『君主制モナーキーの訳語である」(注11、「モナーキー」は、西尾幹二自身のルビ)

 「訳語」と明記している以上、西尾幹二のこの文は、大学一年生の答案であっても、不可となる。なぜなら、「コミンテルン三二年テーゼ」は、ドイツ語で書かれている。英語ではない。「天皇制」の原語は、モナルヒー(Monarchie)であった。一方、モナーキーとは、英語Monarchyのこと。通常の学者なら、馬鹿学生でもしないこんなミスはしない。西尾幹二は、馬鹿学生以下。学者ではない。

 なお、「コミンテルン三二年テーゼ」の訳は第一次訳を河上肇がし、その後、村田陽一が河上訳の推敲をして印刷された(一九三二年七月)。河上はMonarchieを「君主制」と訳していたが、村田が「天皇制」と造語・変更した(注12)。

三淵最高裁長官発言の歪曲報道をもとに真赤な嘘話を創る西尾幹二 

 西尾の嘘歴史の創作は、度がすぎている。次のも、その一つ。

昭和天皇の退位…昭和二十三年五月に三淵忠彦最高裁判所長官らが天皇道義的責任を求めた発言に昭和天皇が)動揺してのことである」(注11)。

  この短い文の中で、西尾は、二つのウソ歴史を偽造している。まず、三淵(みぶち)長官は、昭和天皇に道義的責任など求めてはいない。次に、昭和天皇は、何もご動揺などなされてはいない。

 三淵長官の発言とは、『週刊朝日』一九四八年五月十六日号の座談会で、「終戦当時、陛下が自らをお責めになる詔勅をお出しになられたら国民はどれほど感奮したであろう」旨を述べたこと。これが、ニューヨーク・タイムズ紙ほか海外のメディアの、「東京裁判の判決後に退位か」と尾鰭がついた騒ぎになった。

 退位などには全く言及していない、「玉音放送に続いて詔勅を出されておれば…」という、三淵のないものねだりの不謹慎だが無意味な発言が、どうして天皇に道義的責任を求めたことになるのか。単に外国メディアの誤報事件に過ぎない。この誤報から、確かに、昭和天皇の退位に絶対反対の「GHQは動揺した」。そして、それが、日本のマスコミを賑わすという悪循環が起きた。だが、宮中の動きもこれあって、東京裁判の判決(一九四八年十一月)の直前には、この騒ぎは沈静化した。

 ここでの西尾の捏造歴史の核心部分は、「三淵発言で昭和天皇は動揺した」である。

 昭和天皇は、退位問題に関して揺れるお気持ちを、一九四六年春頃には完全に脳裏から排除しておられた。これが現代史の通説。西尾はまたしても、「一九四五年八月~四六年春」を「一九四八年五~十一月」にすり替えて、“偽造歴史”「昭和天皇は、一九四八年、退位につき動揺していた」をでっち上げている。分裂病の妄想思考(幻覚)による。

 妄想や幻覚で歴史を捏造する西尾幹二には、精神病院への入院を「御忠言」申し上げるしか、適切なアドバイスはないように思える。   (つづく)

 

関連エントリ

西尾幹二の妄言狂史シリーズ

 



1、西尾幹二ほか「特集座談会 現代のタブーに挑戦する─菊と星への憧憬─」『論争ジャーナル』一九六七年十二月号、一三頁。

2、西尾幹二皇太子さまへの御忠言』、ワック、四〇頁、一三九頁。

3、高橋紘・鈴木邦彦『天皇家の密使たち』、徳間書店、八~十頁、二〇頁。

4、木舎幾三郎『政界五十年の舞台裏〈続〉』、政界往来社、四三八頁。

5、『細川日記 』下巻、一九四五年一月六日付、中公文庫、一九七九年、三四一頁。『細川日記』は、すでに『情報天皇に達せず〈上巻〉―細川日記』のタイトルで一九五三年二月末、同光社磯部書房から出版。中公文庫版は、再刊。嘘つき西尾は、「終戦から一九五三年二月まで(の七年間半)」を「戦後永く」と歪曲している。

6、『朝日新聞』一九四五年十月二十三日付け。近衛は「皇室典範を改正し、退位手続の条項を追加せよ」と喋った。二ヶ月前の八月にも、近衛は、天皇退位を公言。

7、矢部貞治『近衛文麿 』下巻、弘文堂、一九五二年刊、六二六~七頁。

8、中川八洋連合艦隊司令長官 山本五十六の大罪―亡国の帝国海軍と太平洋戦争の真像』、弓立社、六〇~五頁。

9、上掲『近衛文麿』、六三〇頁に、すでに東京裁判が終了した後なのに、わざわざ「日本の天皇は、生きて異邦人の裁判にかかつてはならぬということ、近衛は自己の一身をもつて示した」と、“ソ連人”近衛文麿を同志としたコミュニスト矢部貞治は、書いている。

 一九四五年に入るや、ソ連軍よりも米軍が先に日本占領する予想外の展開に、軍・政府や知識人界の半ばを占めていたスターリン極左分子は、大東亜戦争の目的である昭和天皇退位や自決による天皇制廃止が期待できなくなると焦り、せめて昭和天皇の退位/自殺だけでも達成しようとその運動が密かに盛んになった。この一九四五年時点で昭和天皇自殺論者だったスターリン崇拝狂の矢部貞治は、一九四八年末の東京裁判終結から数年が経ってもはや無意味なのに、自分の当時の心境を迂闊にも書き留めてしまったのか、それとも昭和天皇の退位・自殺だけは一九五二年以降でも実現しようと焦ってこれを書いたのか。

 なお、ソ連工作員であった南原繁(東大総長、狂信的なマルクス・レーニン主義者)は一九四六年四月二十九日に昭和天皇の“道義的退位論”を公開で述べた。南原の弟子の一人・中曽根康弘衆議院議員、三十三歳)は、恩師の天皇制廃止イデオロギーを継承して、一九五二年のサンフランシスコ講和条約発効の直前、二度に亘り、激しく昭和天皇の退位を国会で迫った。吉田茂首相は、「非国民め!」と怒り心頭の拒絶答弁をなした。

 昭和天皇退位による天皇制廃止を目指す南原繁の画策は、近衛文麿と同様、一九四五年の戦争中に開始した(『聞き書 南原繁回顧録』、東京大学出版会、三一三~三一頁)

10、上掲『天皇家の密使たち』、二一~四頁。

11、上掲『皇太子様への御忠言』、四六頁、一五五頁。

12、『河上肇全集 月報5』、四頁。                 



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