中川八洋掲示板

世界の現状は、日本の国家安全保障の危機を加速しています。この急迫の時局において、刻々と変遷激しい国内外の事態を冷静に俯瞰できる力を与えてくれる、大容量の真正の知識こそ、いまの日本人に必要なものです。当ブログは、国際政治学者・中川八洋筑波大学名誉教授の個人ブログです。

「史実明らかな日本武尊」を“架空の英雄物語”に捏造した史学界 ──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、古代史に真実と日本国を取り戻そう(7)

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

1、仲哀天皇の生誕/即位/崩御年は「景行天皇在位中に日本武尊は将軍」を証明

【歴史年表から考察】;ゴチック部分は歴史学的に既に確定

  • 崩御367年は確定、宝算51歳も確定。よって、ご誕生は316年。
  • また、第14代・仲哀天皇在位年数が八年間であったことも確定。即位は359年。御年43歳。身長180㎝を超える巨体であったとされるから、心臓麻痺ではなかったろうか。
  • 「父」日本武尊が仮に25歳の時に仲哀天皇が誕生されたとすれば、日本武尊のご誕生は291年。 ともあれ、日本武尊の満15歳の時は、306年だった(仮定)
  • 日本武尊薨去を満30歳だと仮定すれば、それは321年。つまり、丸十五年間、九州から東北まで、全国を所狭しと軍事行動に明け暮れていた。
  • 第12代・景行天皇の即位を303年に仮定。これは第10代崇神天皇崩御258年(確定)から推定。
  • 第12代・景行天皇と第13代・成務天皇の御代は、「303年-359年=56年間」。半分づつにすると、景行天皇は303~331年在位、成務天皇331~359年在位。
  • 上記で、日本武尊(後代の官制でいう)征夷大将軍」拝命は306年と仮定(満15歳)。その薨去を十五年後の321年で満30歳と仮定したが、この「306~321年」は、景行天皇の御代「303~331年」の中に収まり、記紀記述に一致して矛盾や齟齬はない。
  • 仲哀天皇は、父が恋しく白鳥を見ると「父だ」と思い焦がれていた。その別離は321年で、仲哀天皇が5歳の時。これをもって胸を打つ歴史事実と理解するのが、健全な人間性ある日本人の感覚だろう。       

[古代史学者は、菅政友と那珂通世を除き、歴史学者なら必ず作らねばならない(最終的に開示する、自分の研究作業に絶対不可欠な)歴史年表を決して作らない。作れば自分たちが意図的に捏造した、歴史経過ハチャメチャ共産党史観の“真赤な大嘘の偽造歴史”が瞬時にバレるからである]。

2、三韓征伐は366年の前日本全国の軍事的統一と徴税・徴用制度の完成が不可欠

1、366年に事実上開始される「三韓征伐」といわれる、主として新羅制圧=新羅に対する服属要求戦争は、日本国内において、次の二条件が完成していなくてはならない。

続きを読む

歴史学的に成り立たない「神功皇后新羅征伐は伝説」「神功皇后は創作」 ──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、古代史に真実と日本国を取り戻そう(6)

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

○ 新羅百済朝貢(属国)化し日本府・任那を獲得した、日本の四世紀後半の朝鮮出兵に関わる歴史についての古代史学界の情況。

1、日本書紀が引用する『百済記』『百済新撰』『百済本記』の存在については、学界に異論ゼロ。

2、この場合、『日本書紀』の“我が国の朝鮮出兵”記述が史実ということになるが、これも異論ゼロ。

3、金石文の広開土王碑も、『日本書紀』の“我が国の朝鮮出兵”記述内容を史実だとする。

4、高麗朝の『三国史記(1145年)にも、四世紀後半の“日本の朝鮮出兵”に関する記述があり、この史実性をさらに補強する。

 

○ とすれば、学界で合意されていないのは一つだけ。「朝鮮出兵はどの天皇が主導したか」がそれ。

続きを読む

古代史“捏造のドン”井上光貞に全面降伏した“保守”なき日本 ──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、古代史に真実と日本国を取り戻そう(5)

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋  

 私が「古代史が変だ! 異常だ!」と認識したのは2001~2年の頃。新宿・紀伊国屋書店の歴史コーナーで数冊の本を手にした時である。そして、重大な問題が濃厚な、これら古代史の新刊2~30冊を買い求め、そのまま段ボールに詰め込んだ。引退した時の老後の読書用である。

 自分が古代史まで専門を広げることなど、他の分野の研究ですら時間がない以上、頭の片隅にも思い浮かばなかった。また、大東亜戦争八年史のヒストリアンとしての義務感に駆られ、大東亜戦争史を大成せねばとの焦りに苛まれていたから(備考)、古代史に興味を持ってはいけないと自分に言い聞かせていた。ところが、2017年夏、ふとしたことから、この「古代史が変だ! 異常だ!」を思い出した。急いで段ボールを開け、序に「古代史」関連本を三百冊ほど追加購入し、国会図書館に通って論文を含め三百点ほど目を通した。これらについてのさわりは、「特別ゼミ」第二回/第三回で発表予定。

(備考)研究が終了している「ノモンハン戦争」「満洲においてソ連と通謀していた関東軍」「ソ連軍侵攻後の地獄の満洲邦人」など、そのほとんどは未だに出版用原稿にすらなっていない。

 この2001~2年頃に紀伊国屋書店で纏め買いした一冊に、中高校でどんな歴史教育がなされているかをチェックするため、吉川弘文館の『日本史年表・地図』がある。今般、それを取り出して古代史の箇所をパラパラと捲ったが、恐ろしい記述(正確には「無記述」)があった。5頁の欄「天皇」が、第15代の応神天皇から始まったと断定し、神武天皇から仲哀天皇までの14代を完全抹殺している(注1)。

 何と言うことはない。この中高校生用の歴史年表は、天皇制廃止の共産革命ドグマを狂信する井上光貞/直木孝次郎ら共産党員や“金日成狂”江上波夫らが捏造した“古代天皇抹殺プロパガンダ”に忠実に作成されている。すなわち、次代の日本国民に“真赤な嘘歴史”を刷り込ませる洗脳目的の、教宣の“歴史の偽造”「歴史年表」をでっち上げている。「吉川弘文館、お前もか」と、唖然!

古代史学者の口裏合わせ「応神天皇以前の皇統史は皇室の創作」が、歴史の真実を破壊し尽した

 ところが、1989年の昭和天皇崩御に偶然一致して、日本から“保守”が、私一人を残して、完全に消えた。1993年歳末、私を突然ホテル・オークラのロビーに呼んで遺言だと言い残した福田恒存の予測は、見事に的中した。曽野明、林健太郎栗栖弘臣谷沢永一らが、その末期に当たり私にエールを送ってくれたが、“たったひとりの保守”で、政界・官界・法曹界・学界の全てにおける正常と日本を護る“無敵・万能の不動明王”になれるわけがない。  

 ともあれ、1995年初刊のこの吉川弘文館中等教育用の“嘘歴史年表問題”を、日本人の誰も一人として非難しなかった事実は重い。この無非難の事実は、1995年時点、日本から“保守”が壊滅的に消え去ったことを意味しているからだ。

 実際にも、無非難を旗振った産経新聞は、「保守」を詐称する「民族系」で厚化粧の擬装をしているが、裏ではがっちりと朝鮮総連やロシアKGB第一総局と通謀する全くの極左“保守殺し”新聞である。例えば、産経新聞は、古代史でいえば、極左の中の極左だった考古学者・森浩一と特段に昵懇だった。また、産経新聞が後ろ盾した“新しい歴史教科書”の西尾幹二八木秀次は、十社ほどの教科書会社刊の“左翼/極左”中等学校歴史教科書をいっさい非難しなかった。産経新聞は、西尾幹二が廃墟主義アナーキストであり、八木秀次が売名一辺倒男だから支援したのである。彼らが“保守”なら、北朝鮮人が幹部社員のほとんどを占める正体“極左”の産経新聞は西尾や八木を排除している。  

 ともかく、1995~9年時点、吉川弘文館のこの年表を一瞥してすぐさま、中央公論社刊の井上光貞『日本の歴史1』を思い出した日本人は、幾人いただろう。私を除けば、おそらくゼロか。井上光貞のこの本がでた1965年、東京大学三年生だった私は直ぐ読んで、余りに馬鹿げている歴史捏造を蔑して投げ捨てた。天皇制廃止に執念を燃やすアナーキスト(亡国主義)林房雄大東亜戦争肯定論』(1965年刊)にも怒り心頭で投げ捨てたから、1965年は、私にとって“極左本を投げ捨てる年”になった。  

 井上光貞が、応神天皇以前を抹殺する天皇制廃止運動の嘘歴史捏造を思い着いたのは、崇神天皇以前の天皇抹殺をやってのけた“奇人”津田左右吉の暴論妄説を下敷きにしただけではない。江上波夫と水野祐にも強く触発されている。だが、今日の日本では、水野祐など誰も知らない。

 そこで、まず最初に、“天下の悪党”水野祐の“古代史改竄の迷著”『増訂 古代王朝史論序説』(1954年)の紹介から始める。水野祐は生涯、“非コミュニスト”を偽装し続けた「コミンテルン32年テーゼ」の信奉者だった。『増訂 古代王朝史論序説』を読めば、全体としてマルクス史観を狡猾に排斥しているが、「天皇神権」とか「主権者」とか当時の日本流マルクス用語がツクシンボのように頭を覗かせており、共産主義者特有のオドロオドロしい歴史偽造の典型本である。なお、風評「水野祐コリアン説」は当時から根強く、確かに論旨と内容は朝鮮人そのものだが、文体と論理展開の特性が日本人で、朝鮮人のそれではない。

 水野祐の主張は、これが学者かと訝しく思わざるを得ない抱腹絶倒の妄想創作歴史だから、私がこんなイカサマ古代史をわざわざ取り上げること自体を不審に思う読者も多いだろう。理由は単純明快。井上光貞が、このイカサマ学者・水野祐にぞっこん心酔し、その後継者たらんとした事実を明らかにしておきたいからだ。つまり、井上光貞とはかくも度はずれイカサマ学者の系譜にある人物という不動の真実を喚起すべく、この節を書いている。

仁徳天皇は、北方森林騎馬狩猟民族が九州に侵略し国家をつくり難波に遷都した外国人」(水野)  

 “狂人”水野祐のスーパー迷妄書『古代王朝史論序説』は、1952年の私家版として自費出版された(100部、謄写版。これを贈呈された井上光貞は「感激した」との礼状を返信している。この私家版に第三章「諡号考」を付加して活字出版にしたのが『増訂 古代王朝史論序説』(1954年)である。1952年とは、江上波夫騎馬民族征服王朝説が雑誌に公刊された1949年から三年後。この著が江上波夫が創作の嘘歴史小説に触発されて書いたことは、本人の自白もあるから、間違いなかろう。

続きを読む

史実の神武天皇を抹殺した津田“記紀罵り史学”の弟子達 ──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、古代史に真実と日本国を取り戻そう(4)

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

 

最初に、本シリーズ第二稿“記紀殺し”成って、皇室亡ぶ」の、次の脱漏部分を挿入お願いします。

 うっかり欠落していた次の注5と注6を、注の最後に付加して下さい。いずれも本文末尾にある、「摂政」&「魏帝国からの遣使は、大和川をどう遡行したか」についての注です。  

5、「ももそひめ」は摂政だったのではないかという仮説の根拠は、『魏志倭人伝』にある「倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共に立て王となす」の二文字「共立」。「共立」には、“共同で擁立した(連合して推戴した)”の意味は皆無。「共立」は、支那語では、“嫡男子の正統な皇位継承ではない、通常ではしない異例な特別措置で擁立した”という意味だからである。すなわち、摂政も「共立」に含まれる。「ももそ姫」の場合、外交権を独占しているから、“外交における摂政”だったと言える。現在風に言えば、「ももそ姫(及び後継の「台与」)は対外的国家元首天皇は内政の長」という二元政治権力構造が第8代天皇から第11代天皇の297年まで存在したことになる。  

6、大和川については、「迎賓用の豪華舟」を、漕ぎ手十名ほどが漕ぐ別の先行舟でどこまで牽引して遡行したか、どこから(川幅が狭くなり流れが急になったため)両岸からロープで牽引したか、どこから陸に上がり輿に乗ったか、などの現地調査はまだ未実施。ただ、『魏志倭人伝』の「水行十日陸行一月」は「陸行一日」の誤記だろうから、輿で一日5時間の距離(速度一時間3㎞)だと15㎞なので、纏向遺跡の南端から(蛇行し舗装無き田んぼ道で測り)約15㎞北に位置する「佐保川との合流地点」辺りか、それより少し上流で、魏の遣使一行は大和川から上って陸歩行に変えたと推定できる。

 

(以下が本稿)

1、津田“記紀罵り史学”に便乗の第一期コミュニスト古代史“悪の四人組”  

 津田左右吉が、戦後すぐ、共産党員・吉野源三郎が編集長の月刊誌『世界』に自稿「建国の事情と万世一系の思想」を掲載した時(1946年4月号)、世間はあっと息を飲んだ。津田左右吉コミンテルン系の天皇制廃止狂徒でなかった事実に、共産党員のコミュニスト読者も、当時かなりの数だった「反共」保守系も、そして当時は少数派だった純粋民族系も、皆一様に驚き、絶句したからである。

 天皇制廃止狂でないのに、津田左右吉はなぜあれほど激しく、『古事記』『日本書紀』を誹謗的に罵倒し、破壊的な非難(ヴァンダリズム)の拳を振り上げたのだろうか。これについて、誰ひとり理解できるものはいなかった。特に、「読んでびっくり」の驚きを、敗戦直後の日本中のインテリ階級に走らせた津田『世界』稿に、最も驚愕し腰を抜かしたのは、実はこの原稿を津田本人に依頼した狂信的コミュニスト吉野源三郎だった(注1)。  

 吉野は、津田論文と同号の『世界』誌に、後にも前にも例のない、「津田論文を嫌々ながら掲載しています」との言い訳を載せた。「共産党から処罰的に殺される」と身の危険を感じ(注2)、共産党本部に申し開きの弁明をしたのである。共産党は、「殺すぞ!」と脅迫しての言論弾圧言論統制を、1970年代まで日常としていた。私は1980年代初頭、共産党員で擬装転向の清水幾太郎から、東大や学習院大でのケースで、教授会の前日に敢行される、共産党の意に従わない人事をやろうとする教授を脅す“共産党の手口”をいろいろと教わった。この時、共産党員教授が必ず、「殺すぞ!」を口にすることも教わった。ともあれ、津田左右吉記紀罵り史学”の代表的な作品をリストしておこう。

続きを読む

織田信長の天下統一に似た、初期大和朝廷の武力膨脹 ──真赤な“嘘と偽造の古代史”を粉砕し、古代史に真実と日本国を取り戻そう(3)

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋  

 前稿「“記紀ごろし”成って、皇室亡ぶ」で、表2を欠落していました。お詫びします。次の表2とその備考を、中見出し「“デタラメ考古学”栄えて、“古代史の骨髄”記紀滅ぶ」の前に挿入されるよう、お願いします。

表2;初期大和朝廷の周辺への武力制圧行動は、連続して独り勝ち

f:id:nakagawayatsuhiro:20180208141136p:plain

(備考1) 小国「な」「いと」など、福岡県・佐賀県大分県・宮崎県北部一帯は、神武天皇期はむろん、元から極めて友好な「小国」群。

(備考2) 安芸(広島県)南部も、神武天皇以前から友好。近江・駿河などの静岡県一帯も、大和朝廷と友好関係。

(備考3) 第5代孝昭天皇の項は、『播磨風土記』。そこに「おおみまつひこのみこと(=孝昭天皇) ここに館を造りましました時に・・・」と書かれている。沖森卓也ほか『播磨国風土記』、山川出版社、10頁。『播磨国風土記』のこの記載箇所は、武力制覇した106年(仮定)からしばらく経って当地が完全平和になった時期たとえば115年前後など、を推定すべきだろう。なお、播磨国の海岸部を完全制圧していない限り、第7代孝霊天皇吉備国への本格的な武力侵攻は不可能。上記の「舘」は、吉備など西方侵攻のための前進基地か。

(備考4) 第11代垂仁天皇の項は、『日本書紀』を参考にした。

(備考5) 第9代開化天皇の項は、「ももそひめ(卑弥呼)」が魏帝国の帯方郡に緊急軍事救援を泣き込んだ、『魏志倭人伝』にある交戦相手国「狗奴」国を“美濃”に比定した。関東の上野国群馬県)に比定する説もあるが、信濃や甲斐を制覇していない240年代半ばの大和朝廷には距離的に上野国に対する服属要求戦争はまだ無理ではないか。また、真っ青になって魏に救援要請をしたのは、負ければ大和が敵に攻め込まれる近距離にあることを示唆している。 なお、この直後に第10代崇神天皇が敢行した、(1300年後の)織田信長のような短時日の積極的な軍事的膨張から見て、“伯母”「ももそ姫」が心配した“甥”第9代開化天皇の美濃制圧は、大和朝廷の勝利に終わったようだ。それでも念を押すべく、第11代垂仁天皇は、この美濃に対し大規模軍隊をみせつける軍事的威圧を行った。

中川八洋掲示板は、amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。